ナルドの香油

誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。(エレミヤ9:24)

罪は軽きことではない

レビ記を読むに際して、バックストンの講解を参照にしています。 

レビ記4章は罪祭について書かれています。 

「罪祭を献げることは表面に人々の前に罪を言い表すことです。詩篇五十一・三のように公にその罪をも罪の耻をも言い表します。罪の贖いを求める者はこれをせねばなりません。これは心の苦しみです。けれどもそのために人間の前に己を卑くしますから心が砕かれました。真に信ずることができます。また罪祭を献げることは、公然と己の罪の恐るべきことを顕すことです。 

 

罪のためにこの罪なき聖き者は死なねばなりません。 

 

この罪なき聖き者、イエスさまは私の罪のために死ななければならなかったのだと

あらためて心を刺され 

そうですから罪は軽きことではありませんと解ります。 

 の言葉も重く受け止めることができました。

 

続いて以下の文章も心に留まりました。

レビ記4:11-12

 ここに牛の肉の用法があります。神は罪祭の血をも脂をも受け納れたまいます。これによりてこれを献げる者に和を得させたもうことを示したまいます。けれども牛の体は全く神の前より追い出されました。それによって罪の悪むべきことを教えたまいます。また罪祭が自分の罪を負いますならば神より追い出されて参らねばなりません。すなわち十二節に営の外に携え出されました。これはたぶん天幕より一里半或いは二里ほど離れたところでしょう。燔祭のように神の前に焼かれません。罪を負うところの献げ物ですからイスラエル人の営の外まで追い出されねばなりません。これは悪むべき者となり、詛わるべき者となりました。ヘブル十三・十二に主イエスはその通りに詛われたる者となりたまいましたことを見ます。これは主がゲツセマネの憂いをなしたまいましたわけです。主は死ぬることと恥とを恐れたまいません。けれども神より追い出されて詛わるべき者となることは実に怖るべきことでした。
 この灰を棄てる場所は地獄のごとき処でありました。営外へ追い出されるべきものを置くところである筈です。神は彼処へ汚れたる者と共に罪を追い出したまいます。これは実に怖るべきことです。けれども悦ぶべきことです。神はその通りにその領分を潔めて、御自分の民より汚れたるものを取り去ることをなしたもうことのできるのは実に幸いなことです。 

罪祭を献げる者は、神がその犠牲の血と脂を受け納れたまいましたことを見て心の平安を得ました。もはや自分の罪が全く潔められてその赦しを得ましたと感じます。 

 今のキリスト教はイエスさまの十字架の贖いによって罪が赦されたことを大々的に語りますが、以下の文章については殆ど、語られていないのではないかと自分自身を省りみて思わされます。 

 けれども後にその牛の体の追い出されることを見て、続いて罪の恐るべきことを感じます。今でもたいがいその通りです。私共は幾分かの罪の恐るべきことを感じますから罪の赦しを求めます。けれどもそれについて安心を得ました時に、前より一層深くその罪の怖るべきことを感じます。主イエスは罪のために追い出されたまいましたことを見て神と和らぎを得ました。神の子を追い出すものは真に恐るべき者です。たぶん天国に行く時に感謝と歓喜の中にもなお自分の罪を感じますと思います。 

 罪の赦しへの感謝と共に、イエスさまは燔祭のように神の前に焼かれず、罪を負うところの献げ物ですからイスラエル人の営の外で十字架にかけられ、悪むべき者となり、詛わるべき者となってくださった。灰を棄てる場所は地獄のごとき処だった。神の子をそのように追い出す罪に対してもっと恐れを持ち、罪から離れる必要があると思います。