ナルドの香油

あなたは私の隠れ場(詩篇32:7)

この町には、わたしの民がたくさんいる

 

 Ⅰコリント18:19-20 

19 ある夜、主は幻によってパウロに、「恐れないで、語り続けなさい。黙っていてはいけない。

20 わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はいない。この町には、わたしの民がたくさんいるから。」と言われた。

主よ、この町にはあなたの民が沢山います。

以前、うちを尋ねて来られたエホバの証人の女性の息子さんが、今は集会に集っていないと聞き、理由を尋ねたところ、

「組織や集会の人間関係などに躓いたのではなく、どんなに頑張っても自分はパウロのようにはなれない・・・」と言ってエホバの証人から離れたというのです。

私は彼の誠実さに心を打たれました。

でもパウロのようになるにはイエスキリストを主なる神として迎えなければならないのです。そして以下の聖句に導かれる必要があります。いつかその息子さんに伝えれたらと思っています。 

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。(ガラテヤ2:20) 

ローマ6:3:8

3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。

4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。

5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。

6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。

7 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。

8 もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。 

ピリピ2:20-21 

20 それは、私がどういうばあいにも恥じることなく、いつものよう今も大胆に語って、生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現されることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです。

21 私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。 

 

コロサイ3:9-10

9 互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、

10 新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。

彼は 

「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ7:24)  

 の所で止まっている状態でもあるのだと思います。

 

もう一人、長男の友達の神主であるお父さんは長年、不眠症に悩まされています。

原因は幼少期から現在にまで及ぶ母親の言葉によるDVであるとママ友から聞きました。ママ友はご主人に寄り添って明け方、ご主人が眠りにつくまで一緒に起きていてあげているそうです(涙)

ご主人は眠れてもいつも同じ悪夢を見てうなされていて、子どもの頃に住んでいた神社の境内内にある真っ暗な部屋に一人閉じ込められ、外の明かりが隙間から差し込んでいるけれども、外に出ようと扉を捜してもどこにも扉が見つからず外に出ることができないという悪夢をいつも見るのだそうです。

 

私も長年、罪責感という暗い地下牢に入れられていましたが、イエスさまに出会い、「十字架と復活」の福音を聞いた事によって、その牢屋の鍵をイエスさまは私に与えて下さり、明るい地上に出ることができました。そこは草原のようで、新鮮な新しい空気を吸うことが出来ました。

息子の友達のお父さんをその暗い部屋から外に出すことができるお方は、イエスさましかいないと思っています。 

どうか、主よ。このお二人がイエスさまに出会い、ご家族の上にも救いが訪れますように。 私が恐れず福音を語り続ける事ができますように。