ナルドの香油

あなたは私の隠れ場(詩篇32:7)

死は勝利にのまれた

 6/8は救いを祈っていた友人二人が同時に信仰告白に導かれて主に感謝を捧げました。けれど、その日の夕方、広島に住む主人の父が亡くなったと連絡が入り複雑な思いになってしまいました。

 義父は2ヶ月近く前に腸の手術をし、手術自体は成功したのですが、元々心臓が弱かったので最近、心臓の弁を広げる手術もしていたのでした。

義父を元気付ける為、6/10に3人の孫を連れてお見舞いに行こうとしていた矢先の事でした。

 翌日の夜、斎場に着くと義母が「急変してこんなに早く逝くと思わなかった」と泣きながら話してくれました。

最期は安らかに、母の手を握りながら亡くなったそうです。

義父は定年後26年間、リウマチを患う義母の代わりに主夫となり、炊事、洗濯、家事、全てを父が担当していました。 

母が手伝おうとすると、「あんたはいいから座ってなさい」と叱られたそうです。

私の主人は一人っ子なのですが大学時代から関東に出ている為、夫婦二人で手を取り合いながら、ずっと生きて来たのでした。まさに一心同体の夫婦だったのです。

  父が入院中、母は朝8:30-夜20:00まで面会時間フルで毎日付き添い、父も母の手を握って離さなかったようで二人の仲睦まじさに圧倒されて、先生も看護師の方々も父を癒そうと一生懸命尽くして下さったと聞きました。

消化器の先生、心臓の先生、救命救急の先生が親身になって治療にあたって下さり、臨終の時も、その三人の先生が部屋に駆けつけて下さったと知り、それは三位一体の主なる神だったのではと今、思います。 そうでなくても先生方に主が働いて下さったと思います

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義父母には随分前に聖書をそれぞれにプレゼントし、その際に福音も伝えましたが、残念ながら反応はありませんでした。

数年前に帰省した際は、普段私は離れて暮らしていて何もできないので、何かあったらイエスさまに頼って欲しいと思い、トイレに御言葉の壁掛けをかけて帰りました。

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今もそれは飾られています。

この御言葉が義父に働いて、天に召されていますように。

 昨日は告別式で主人の親戚2家族と何年か振りに会いました。年賀状だけのお付き合いになっていましたが、そのうちの一人の叔父さんが、「今朝、年賀状を見て子ども達三人の名前を覚えてきたよ」と言って、三人の名前を呼んで下さいました。

そして

「砂浜に『イエスさま ありがとう』って書いてあったけど、お母さんが信じてると、子どもも自然にそうなるんだね」と言われ、あんな小さな写真なのに気付いてくれた事が嬉しく、その後、イエスさま無しには私達家族は立ち行かなかったと小さな証しも話せて感謝でした。

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火葬場に移動し、火葬のためのエレベーターの中に棺が入れられる段階になった時、義母は崩れるように泣き始めました。他の方々も皆、同じように涙を流していました。

その時、聖書の次の場面が思い出されました。

ヨハネ11:32-35

32 マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」

33 そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、

34 言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」

35 イエスは涙を流された。

 私たち人間は「死」から誰も免れる事は出来ません。そして「死」は最愛の人達との永遠の別離であり、悲しみであり、希望が全くありません。

エスさまも、その状態を感じて下さり涙を流して下さったのだと思います。

 けれど、その後、次の聖句が思い出されました。

 

エスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか」(ヨハネ11:25-26)

ヘブル2:14-15 

14 そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者滅ぼし、

15 一生涯死の恐怖に繋がれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。 

最後の敵である死も滅ぼされます。(Iコリント15:26) 

しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利に飲まれた。」としるされている、みことばが実現します。(Iコリント15:54)

  主の十字架と復活のゆえに、私たちは死に勝利しているのだという強い思いが与えられました。

残された義母や親戚の救いの為に祈り、福音をもっと大胆に宣べ伝えて、葬儀場で悲しみで泣くのではなく、復活と再会の希望を持って涙を流す人達を増やしたいと新たに思いました。

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(母のPC画面 父は帰省の度に長男と将棋で遊んでくれました。)