イエスから目を離さないでいたい。

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(現在、大学生の長女が幼稚園の頃、教会の夏休みイベント「イエスフェスティバル」で作成した壁かけ) 

今年の2月からずっと求め続けている聖霊バプテスマ

昨日はペンテコステだったので、もしかしたら・・・・と淡い期待を持っていましたが何も起こりませんでした。

午前中は長男と教会へ、夜は次女と家庭礼拝を行い、前回からの続きでヨハネ福音書を二人で読みました。その箇所が図らずもヨハネ7章で 

さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」

これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。(ヨハネ7:37-39) 

この箇所でした。

これは、ずっと、「聖霊の内住」の事を言っているのだろう。「それなら既に私は受けている」と思っていたので、この箇所を読んでも素通りだった気がします。

けれど、これは「聖霊の内住」ではなくて、「聖霊バプテスマ」の事なのだと教えて頂いてから再度、ここを読むと、仮庵の祭りで賑わい、ごった返した中で

エスさまが大声で「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」と叫んでいる姿が胸に迫って来ました。

その叫びは、今の私に向かっても叫ばれているのが分かりました。

私も心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになりたい・・・・。

昨日は約束の聖句と「必要なのは、御子とそのわざを信じることだけです。」というアドバイスを握って祈り賛美し続けました。

けれど救いが賜物であるように、聖霊バプテスマも神さまからの一方的な恵みであり賜物であるので、現段階では与えられませんでした。

このまま、前みたいに忘れてしまうのではなくて、 

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。」(ヘブル12:2-3) 

この事だけに集中して信仰生活を送っていきたいと思います。

それに、これまでを振り返ってみても次の御言葉が真実だと思うからです。 

あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日がくるまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。(ピリピ1:6)

「2000年前にイエスキリストが十字架に架けられた事と、今の自分にどんな関係があるのか分からない」と牧師夫人に訴えていた自分が救われ、

洗礼を受けようとしたら親からの迫害に遭い、父が教会に押しかけてきて、「目を覚ませ!」とビンタされ、「勘当する」と言われたた為、2003年のクリスマスに受けるはずの洗礼は延期となりました。翌年の自分の誕生日に洗礼を受けたいという思いが与えられましたが父の反対は相変わらずでした。エリヤハウスの学びの中に「切り離しの祈り」というのがあり、結婚後は父母を離れと聖句にあるのに親子関係の個別化が図れていない人の為の祈りなのですが、それを牧師夫妻に祈って頂いたそのすぐあと、ヨーロッパ出張から帰って来た父から突然電話がかかり、向こうで2ヶ所教会に行ったそうなのですが、2ヶ所とも、自分が足を踏み入れた瞬間にパイプオルガンが鳴り始めたこと、ドイツ人の知り合いの方のお墓参りに行った際にお墓の中から「お嬢さんの洗礼を赦してあげて」という声が聴こえたと言い、他者への伝道禁止という条件付きで洗礼を赦すと言ってきたのでした。その条件は今も守れていませんが、無事に誕生日に洗礼を受けることができました。

その後、20年に渡る罪責感から癒され、昨年は「聖化」に対する正しい理解が与えられて楽になり、つい先日は、実は長期に渡る罪責感と自己憐憫、恥意識のために神さまに愛されているという実感が全く持てていなかったのですが、違う角度から見ることを教えて頂いて、初めて神の愛が実感として分かったのでした。

他にも書ききれていませんが、沢山の恵みと導き、矯正もありました。

これからもイエスさまと信仰の家族と一緒に信仰生活を歩んでいきたいと思います。