ナルドの香油

あなたは私の隠れ場(詩篇32:7)

境界線(バウンダリー)とは何か④

質疑応答 
Q1 山上の説教で
「一ミリオン行けと強いるような者とは、一緒に二ミリオン行きなさい」と言われていますが、その場合の境界線の位置づけはどのようにすればいいですか?
 
A)大変良い質問ですね。
第一に、聖書が言うように行ってください。
第二に、一つの聖書の言葉だけで神学を作り上げてはいけません。
現在、一つの聖句だけで神学を作り上げてしまう人が大勢います。
それを「カルト」と言います。
 
使徒の働き17章に出て来るベレヤの人々は、非常に熱心に御言葉を聞き、その通りかどうか聖書を開いて調べていました。
 
もし誰かが、あなたの聖書の一箇所だけを開いて何かを言うなら、聖書全体を調べてみて下さい。
聖書は聖書から解釈すべきなのです。
 
では、先程の御言葉を見てみましょう。
 
「一ミリオン行けと強いるような者とは、一緒に二ミリオン行きなさい」
それをして下さい。
 
しかし、Ⅱテサロニケ3章10節には「働きたくない者は食べるな」と書かれています。
どうしたらいいですか?
働かない人のために行ってあげるべきですか?
いいえ。その人は、働くまで食べてはならないのです。
 
つまり、相手によって対応を変える必要があるのです。
 
例えば、もし私たちの姉妹が傷ついていたり、経済的な必要があったり、あるいは離婚を通り抜けようとしている場合、私たちは二マイルでも三マイルでも一緒に行ってあげるべきです。傷ついた弱い人のために、それをしてあげるべきです。
 
しかし兄弟が怠け者で、神の恵みを拒絶しており、自己中心で無責任なら、その場合は「NO」と言うべきです。
「恵み」は怠け癖を助長するために使うべきではありません。
その人が成長するために用いるべきなのです。
 
また私は、恵みがいつも先立つべきだと思っています。
もし誰かがお金を貸して欲しい、時間を下さい、車を貸して、と言ってくるとき、
クリスチャンとしては「はい」と言うべきでしょう。
それが恵みだからです。
もちろん、それによって私たちの生活が破壊されてはなりませんが、
私たちに与えるものがある限り、与えるべきだと思います。
 
その後、あなたが恵みを与えた相手がそれをどのように用いるかによって、その人の人格を知ることができます。
あなたが余分に歩いてあげたことによって相手が感謝し、独り立ちできるようになるならば、あなたは良いことをしたのです。
 
しかし、「もっと、もっと」と要求してくる人もいます。
箴言30章15節には「蛭には二人の娘がいて、『くれろ、くれろ。』と言う」と書いてあります。
あなたは愛のある人に与えていますか?
それとも蛭のような人に与えていますか?
私たちは、私たちが与えることによって生じる実に対しても責任があるのです。
エスさまは豚に真珠を与えてはいけないと言われました。
 
Q2 境界線と共依存には何か関係があるのですか? 
A) みなさん、「共依存」という言葉を聞いたことがありますか?
共依存とは責任の神学における問題です。
他の人が本来責任を持たなければならない問題に対して、あなたが責任を持ってしまうことです。
 
自分の問題を放っておいて他の人の問題ばかり取り扱おうとする人の状態です。
そのような人は、自分は愛に満ちていると思い込んでいます。
確かに彼らの心はその通りなんですが、その結果として生まれる実は、
相手が怠け者である場合、「ますます怠け者になる」という実なのです。
 
共依存とは、他者を愛することと、他者を助け出してしまうこととの区別が出来ていない状態と言えます。
 
愛するとは、相手を支えること、傍にいてあげることですが、その人が果たすべき責任まで引き受けてしまうことではありません。
 
一方、「助け出してしまう」とは、相手が行った行為の結果として生じる痛みを取り除いてしまうのです。
 
境界線とは、共依存を癒すために存在します。
境界線を引くというのは、
私はあなたを愛します、しかしあなたの責任を代わりに引き受けることはいたしません、という関係を生み出します。
 
神学的に言うならば、共依存は神の働きを邪魔してしまうことになります。
神はご自分の子ども達を しつけたいと思っておられます。
神は愛に満ちた父親です。
ヘブル人への手紙12章10節には、
「霊の父は、私たちの益のため、私たちを御自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです」と書かれてあります。
ところが共依存は、神さまが行おうとしている しつけ のプロセスを邪魔してしまうのです。(つづく)
 
                          ジョン・タウンゼント