境界線(バウンダリー)とは何か②

では次に、境界線(バウンダリー)という言葉の定義をはっきりさせましょう。
 
「境界線」と聞いて、愛や自由を思い浮かべる人は少ないのではないでしょうか。
 
通常、限界、壁、分離などを思い浮かべます。
 
しかし境界線という言葉は、自分の責任範囲「地境」と理解していただくのが適切です。
 
日本にネズミはいますか?あなたの家にネズミが入ってきたら誰の問題ですか。
それはあなたの問題です。あなたの家、あなたの責任、あなたのネズミです(笑)
隣人が私の家からネズミを取り除いてくれますか?
そうではありません。私の責任です。私が対処しなければなりません。
しかし、そのネズミが隣人の家に行ってしまえばどうでしょうか。
隣人の問題です。
これが地境です。
 
私は隣人を愛していますし、良い関係を持っていますが、
彼のネズミは彼の問題です。
私は隣人に”対して”責任を負いますが、隣人に”関して”責任は負わないのです。
 
多くのクリスチャンはそのことが分かっていません。
クリスチャンは世界の全てのことについて責任を感じてしまいます。
 
小さな鳥が北極で死ぬと、私の責任だと思ってしまうのです。そこであちこちに飛んでいって、様々な人の問題を解決しようとします。
しかし、そうしている間に自分の家の中のネズミはどうなるでしょうか。
 
まず、私の内側に問題があるのです。
アメリカにこういうことわざがあります。
「靴屋の子どもは靴を持っていない」
 
神さまは、あなたの人生をあなたへの贈り物として、あなたが管理するものとして与えて下さいました。
 
マタイ25章にあるタラントの喩えを読めばよく分かると思います。
一人は5タラントをもらい、それを投資して5タラント儲けました。
2タラントの人は2タラント儲けました。
しかし1タラントもらった僕はそれを地に隠しました。
主人はそれを怒りましたね。
 
あなたにもタラントが与えられています。
それはあなたが管理して増やして、他の人にも与えていくためです。
これは自己中心ではないのです。
管理責任の問題です。
 
私たちが自分に与えられているものを充実させることなしに、外に出て行ってばかりでは、やがて私たちの内側はからっぽになり、神さまから頂いた賜物を生かすことができなくなるのです。
 
第2コリント5:10節には、神の前に出て申し開きをしなければならないと書いています。神に対して説明責任があるのです。
ですから、私たちが自分の人生の面倒を見ないでいるのなら、神さまはそれを喜ばれません。
自分の人生に地境を持つというのは良いことなのです。
それによって自分の心の面倒を見て、人生の面倒を見て、時間を管理して、自分自身を管理するのです。(つづく)
 
                       ジョン・タウンゼント