ナルドの香油

誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。(エレミヤ9:24)

クリスチャンは2度破産しなければいけない。

 

3つの重要な要素
① 人間は神のみ姿に造られていること。
② 人間は、罪によって堕落してしまっていること。
③人間が善をなす力を全く持っていないということ。
 
ローマ人への手紙7章でパウロは「私はかつて律法なしに生きていました(9節)」
と言っています。誰でも、ごく幼い時には、律法なしに生きているものです。子どもは本能的に生きており、何でも思いつくまま行動します。おなかがすけば乳を欲しがりますし、疲れるとすぐに寝てしまいます。気分が悪くなると泣きだします。子どもは律法というものを持っていません。しかし子どもは大きくなると、ある日、母親の「~してはいけません」という命令の声を聞くようになります。
子どもはして良いことと、してはいけないことがあることを知るようになります。
母親の言っていることがいくら良くて正しいであっても、子どもはそれに対して反抗しようとするものです。母親の戒めの声を通して、子どもの中から悪い性質が、つまり罪の性質が明るみに出てくるのです。
これと同じように、正直な人は、律法を通して自分の内にある暗い性質が明るみに出されてくるのを認めるでしょう。
 
人間は頭の先から足の先まで汚れたものであり、不真実なものであり、自己中心的なものです。このように人間は罪の奴隷ですから、彼らは不幸になるのです。
しかし、律法は鏡のように、人間の罪の汚れた状態を示すだけではなく、いわば道しるべとして、主イエスに至る道をも示しているのです。
 
エスに向かって次のように心から祈る人は、必ず新しい生まれ変わりを体験するでしょう。
 
「私は罪を犯しました。私は汚れたものです。私は不真実なものです。私は自己中心的なものです。私は心から生まれ変わりたいと願っています。私は、あなたが私のために血を流して下さったことを心から感謝しています。どうぞ、私の神、主になってください。」このように祈る人は必ず救いの体験を与えられます。
 
このような祈りをする人の心は、開かれており、その人の心の中に主イエスが入って下さるのです。まことに多くの人達が、このようにして、主イエスが罪を赦してくださるだけではなく、新しいいのちも与えてくだる方であることを体験してきたのです。
 
どのようにして主イエスは全ての人の個人的な救い主になってくださることができるのでしょうか。主イエスの救いに対して感謝をささげ、自分の生活を主イエスの支配に委ねることによって、主イエスは私たちひとりひとりのための個人的な救い主になってくださるのです。
律法は、このようにして、人間を徹底的な破産に追い込みます。
 
しかしそれだけではなく、このように破産を体験した人は主イエスのみもとに行き、このお方が決して破れ果てたものを追い出すことなく、受け入れてくださるということを体験するのです。主イエスとの個人的な出会いの体験を通して、人は主イエスの血潮のきよめの体験をするのです。(ローマ5:1,エペソ1:7)
 
しかし律法は、私たちの「古き人」を破産へと追い込むばかりではなく、私たちの「新しい人」をも破産に導くのです。
このことを私たちはローマ人への手紙7章を通して見ることができます。
新しい人は、自分の罪が赦されていること、自分が神の子であること、また、自分は神のものであるということを知っています。しかし、このように生まれ変わった新しい人、すなわち信者が律法を行い、神さまの御心に叶った生活を始めようとするといなや、その人は必ず自己破産へと導かれるのです。
 
たとえばアブラハムは「私はちり灰にすぎないもの」であると告白しています。
またイザヤは、「わざわいなるかな。私は滅びるばかりだ。私は汚れたくちびるのものだ」と叫びました。
ヨブは「私は自らを恨み、ちり灰の中で悔います」と言っています。
パウロもまた「私は罪人の頭です」と告白しているのです。
これらの人々はみな、いうまでもなく信者でした。
 
しかし、この人たちは、事実、破産へと追い込まれて、このような告白を残しているのです。
 
ですから何が悲しむべきことであるかと言いますと、実に多くの信者たちがいまだにこのような「破産へと導かれていない」ということです。 
 
このような破産を求めたことのない信者は、いまだに自分の力で主に仕えようと努力しているのです。
 
従って、律法の目的は、次の2つのことであると言えるのです。
 
Ⅰ) 生まれながらの人たちを破産へと導いて、主イエスのもとへ来るようにさせること。
 
Ⅱ)生まれ変わった人たちを同じように破産へと導いて、御霊の完全な支配のもとに至らせること。