「放蕩」する神

ティモシー・ケラー著 『 「放蕩」する神 』 をプレゼントして頂き読みました。
 
この本を読むまで、ルカの福音書15:1-3,11-32の放蕩息子の譬え話の箇所から思い浮かぶ事は
 
弟=新生してすぐのクリスチャン
兄=信仰歴が長くなったクリスチャン
で、クリスチャンなら、どちらの立場も経験するのではないかという事でした。
 
また、悔い改めた弟を父親が無条件で受け入れた側面に強調点が置かれ、たとえどんな過去があるにしても父なる神がいつも愛し受け入れてくださると聞いた聴衆が、感動のあまり目をうるませてしまうようなメッセージが教会では語られると思います。
 
ところが、もしそこでとどまるなら、私たちはこの譬えを単なる感傷的なストーリーとしてしか、捉えていないと著者は言います。
 
「このたとえは、『自由奔放な罪人』ではなく、聖書が教えるすべてを守り行う、敬虔で信仰深い人々に向けて語られたからです。
不道徳な部外者ではなく、むしろ道徳的な身内に強く語りかけたのです。
エスが伝えたかったのは、彼ら自身の持つ視野の狭さ、つまり、偏った、自分が正しいという姿勢と、その心のあり方が彼ら自身だけでなく、その周囲のたましいを、どれだけ蝕んでいるか、ということでした。ですから、このたとえを、単に弟タイプの罪人たちに神の無条件の愛を保証するもの、としてだけ捉えるのはまちがっています。
語りかけられた人たちは、感動の涙に酔いしれるどころか、ショックを受け、深く傷つけられ、怒り心頭に発したのです。イエスは、最初から心温まるお話ではなく、隔ての壁を粉々に打ち砕くことを目指していたのです。・・・・・(略)」
 
※ルカ15:1-3はこのように始まります
「さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。『この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。』そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された」)
つまり、パリサイ人、律法学者に向かって語られていることを念頭に置かなければなりません。
 
「もちろんこのたとえは、弟の破滅的な自己中心さを明らかにしてはいますが、むしろ兄の道徳的、倫理的生活に最も非難を向けているのです。
エスが言っていることは、こうです。信仰深い、信仰深くないにかかわらず、どちらのタイプも霊的には失われているのだと。どちらの人生も、その結末は袋小路だと。そして、人間が歴史上あらゆる努力をしてきた、神とのかかわり方すべてがまちがいだったと。」
 
このたとえは「放蕩息子のたとえ」ではなく、「失われた二人の息子」と名付けた方が適切で、それは全2幕のお芝居のようです。
第一幕は「失われた弟」
第二幕は「失われた兄」です。
 
 
「第二幕では兄に焦点が向けられています。生真面目に父親に従っていた彼は、要するに神のおきてにも従っていたことになります。非常に冷静で、自制心を持っていたはずです。となると、ここにいる兄弟は、世間体の悪い弟に、出来の良いお兄ちゃん、ということになりますが、その二人ともが、父親に背を向けていました。
父親は、この二人に対して、自分から出て行って、愛のこもった宴会に招き入れる必要がありました。ですから、このたとえには、一人ではなく、二人の、失われた息子たちがいることになります。
しかし第二幕は考えられないような結末を迎えます。話し手のイエスは、わざと兄と父の関係に解決を与えないまま、話し終わるのです。悪い息子が父親の宴会を楽しみ、良い息子は入ろうともしないのです。女遊びにうつつを抜かしていたあの息子が救われ、日々忠実におきてを守り行っていた息子が救われない状態です。
エスが話し終えた時のことを想像すると、まるでパリサイ人達が驚きのあまり息を飲むのが聞こえるかのようです。それは、今まで、彼らが教えられてきたすべてを、根底から覆すメッセージだったからです。
二人の関係が修復されないばかりか、イエスのメッセージはさらに衝撃的でした。
なぜ兄は中に入らなかったのでしょう。
その理由が兄自身の言葉に見られるからです。
『今まで一度だってあなたに従わなかったことなどなかったじゃありませんか!』
兄は、その正しさにもかかわらず、父の愛を受け入れなかった、というのではありません。その正しさゆえでした。父と兄を隔てている壁は、兄の犯した罪ではなく、兄自身が正しいことをしてきたという自負、プライドによるものでした。
父の開いた祝宴に入ることができなかったのは、彼が何か過ちを犯したからではなく、むしろ、正しすぎたからでした。」(略)
 
「兄が一番欲しかったものは何でしょう。考えていくと、兄が欲しがっていたものも、結局は弟のそれと変わらないとくことが見えてきます。兄も弟と同じくらい、父親に反抗していました。兄もまた、父親自身よりも、父親の所有物が欲しかっただけなのです。弟のように、そのために遠く離れて行くかわりに、兄はとどまり、父に『一度だって従わなかったことはなかった』のです。それが、兄なりの、欲しいものを手に入れるための手段でした。言葉にはされない、彼の要求はこうでした。
『僕は今まで一度だって、あんたに従わなかったことはなかった。だから、今度は、あんたが、僕の思うとおりに動いてくれる番だ!』
兄弟二人の心は同じでした。二人とも父親の権威を拒絶し、そこから離れて自由気ままに生きることを望んでいました。二人ともそれぞれ父親を自分のいいなりにできるだろうと思われる立場に身を置いたのです。それぞれが、つまり反抗したのです。一人は誰の目にも明らかな反抗を通して、一人は、あまりにいい子になりすぎることによってです。二人とも父の心からは遠く離れ、つまり、失われていたのです。
それでは、ここでイエスは何を教えようとしていたのでしょうか。二人とも、父親自身を父親だからという理由では愛していませんでした。むしろ自分たちの自己中心的な欲求を満たすために、父親を利用していたのであって、息子として父を愛し、喜び、仕えることをしなかったのです。これは言いかえれば、私たちは誰でも、神に反抗することができるということです。その掟を破ることによってはもちろん、その掟を忠実に守り行うことを通しても、です。
 
罪とは何でしょう。このたとえを通してイエスは、私たちが今まで思いもしなかった、さらに深い罪の概念を示しています。たいていの場合、罪とは神のおきてに従わなかったこと、破ったことを思い起こさせますが、イエスの説明は、さらにその先を行きます。(略)
あなたはすべての道徳的規準を満たすことによって、救い主であるイエス自身を避けられます。もし、すべての道徳的規準を満たすなら、あなたは『権利』を手に入れます。それは、神があなたの祈りにこたえ、良い人生を与え、死後、天国行きの切符を与えてくれるという権利です。無償の恵みによって、すべての過ちを赦してくれる救い主など、必要ないのです。なぜなら、あなた自身が自分の救い主だからです。
これこそ、兄の心の姿勢でした。なぜ彼は、あんなにも父親に怒りを覚えたのでしょうか。それは、着物や指輪や家畜など、家の財産の使い道について、彼も意見する権利があると感じていたからです。同じように、道徳的規準をことごとく守る信仰熱心な人たちは、実際のところは神の上に立ち、神をコントロールし、いつか返してもらえるように、神に借りをつくらせようとしているのです。つまり、その道徳的な熱心さや敬虔深さにかかわらず、彼らは、結局神の権威に対抗していることになります。
もしあなたが兄のように、こんなに一生懸命神に仕えて働いて従ってきたのだから、神は私を祝福し、助けるべきだと考えているとしたらどうでしょう。
 
そうするとイエスは、あなたの助け手であり、模範であり、あるいはインスピレーションの源かもしれませんが、救い主ではありえないのです。あなたの救い主としての役割は、あなたがすでに、自分自身で担ってしまっているからです。
二人の兄弟の、ことごとく違う行動パターンですが、その底辺に流れているのは同じ動機であり目的です。二人とも、その心が追い求めるものを得るために、父親を利用していただけでした。それは、父の愛ではなく、富でした。そして二人とも、その富が自分を幸せにし、満足させるものだと信じていたのでした。
最終的に祝宴に入っていくことによって、兄は父との関係に本当の喜びを見出す機会を与えられていました。しかし、彼のかたくなまでの拒否反応は、父親の幸せが究極的な目的ではないことを示しています。父が、兄の取り分がさらに少なくなることをも顧みず、弟を再び家族として迎え入れたと知ったとき、兄はその本当の気持ちをむき出しにしました。父親を、どんな手段を使っても傷つけ、拒絶しようとしたのです。」
 
長くなりましたが以上が一部、抜粋です。
 
現在の教会は、この兄タイプがかなり多いと著者は言います。
 
この本を読んで、この3つの譬え話が、罪人たちを受け入れて食事をしているイエスさまに対して文句を言っているパリサイ人、律法学者に対して語られた話であることがはっきりと分かりました。そしてこの譬え話を通して、主は彼らに向かって、兄に向って言ったように、『一緒に祝宴に入ろう』と痛切に招いておられる事も分かりました。
 
15章は『迷い出た羊』の話と『なくなった金貨』の話とこの『失われた二人の息子』のたとえの3つですが、最初の2つはなくしたものを、どんなことをしても見つけようと探す人が登場しますが、『失われた二人の息子』には出てきません。本来、いなくなった弟を捜しに行くのは兄であることが創世記のカインとアベルの箇所から分かります。
『おまえこそ、弟の番人であるべきなのに』・・・・。
 
「不完全な兄を登場させることによって、イエスは本当の兄とはどんな姿なのかということを想起させようとしています。私たちには、その兄がいます。
行方不明の弟を捜しに隣の国に捜しに行くような兄でしょうか。いいえ、天高くから、この地上まで降りて捜しに来てくれた方です。私たちは、単にある程度の額を支払ってくれる保証人がいるだけで十分でしょうか。私たちの抱えている負債はあまりにも多額です。そんな私たちが神の家族として迎え入れられるためには、どんな借金でも肩代わりできる方、ついには自身のいのちさえ犠牲にするほどの方が必要なのです。」