ナルドの香油

あなたは私の隠れ場(詩篇32:7)

イエスの十字架までの時間とゲツセマネの出来事☆

午前1時  ゲツセマネでの祈り、ユダの裏切り、イエスの逮捕、弟子達イエスを見捨てる
午前2時  アンナスの家でひそかに最初の予備尋問
午前3時  カヤパの家で私的な裁判:祭司、律法学者、長老が出席、門番達による    嘲り
午前5時  正式なユダヤ議会、死刑の判決、ピラトによる最初の裁判、ヘロデによる審査、ヘロデと部下の嘲り
午前6時半 2度目のローマ裁判、ピラトの判決、鞭打ち、ローマ兵による嘲り
 
 
明日は受難日です。
今、夜の22時半ですが日付が変わってからイエスさまはペテロとヤコブヨハネを連れてゲツセマネに行き、祈られます。一睡もせずに十字架への道を歩まれたのですね。
 
マルコ14章

 :32 ゲツセマネという所に来て、イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈る間、ここにすわっていなさい」

:33 そして、ペテロ、ヤコブヨハネをいっしょに連れて行かれた。イエスは深く恐れもだえ始められた。

:34  そして彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで目をさましていなさい。」

::35 それから、イエスは少し進んで言って、地面にひれ伏し、もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈り、

:36 またこういわれた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。

:37 それから、イエスは戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「シモン。眠っているのか。一時間でも目をさましていることができなかったのか。

:38 誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」

:39 イエスは再び離れて行き、前と同じことばで祈られた。

 
以下、本郷台キリスト教会 池田登紀子牧師メッセージより抜粋
 
主イエス様は34節で次のように祈っておられます。
 
「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。」そして、
 
33節「イエスは深く恐れもだえ始められた。」
このように深く恐れ、もだえながら祈っておられる。
 
「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。」
絶体絶命の窮地を迎えようとしておられる主イエス様。
最後の晩餐が終わって、父なる神に祈るためにこのゲツセマネの園に来られた主イエス様が祈っておられる様子が分ります。
 
そして、35節、「イエスは地面にひれ伏し、もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るように」と祈られ、
更に、36節「どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。」
「お父さん、あなたには何事でもできないことはないお方です。ですから、どうぞお願いです。この杯を私から取りのけてください。」と祈っておられるのです。
 
大分、以前の事ですが、青年たちとこの箇所の聖書通読をしていた時、その青年達の中から、
 
「先生、主イエス様は十字架を前にして気が弱くなられたのですか。」とか、
あるいは
「死に対する恐れから、脅(おび)えておられるのですか。」
といった率直な質問を受けた事があります。
 
確かにこの箇所は一見すれば、そのようにも読み取る事もできるのですが、
この事に関して、実は、イスラエル旅行の一つのあかしをさせていただきたいと思うのです。
 
私たちのツアーをガイドしてくださった、アメリカ人と結婚しエレサレムに住むスチーブ・栄子さんという方のお話しです。
この方はガイドという職業柄、幾度も、このゲツセマネの園を訪れておられるのですが、ある時「私は開かれました。」と次のようなお話しをしてくださいました。
 
このような深い悶えと、悲しみの中で「この杯を私から取り去ってください。」と祈っておられた主イエス様は、その杯の中に何を御覧になったのでしょう。
 
主イエス様は十字架に架けられた自分の御姿を御覧になったのでしょうか。
 
でも、ヨハネ12章27節を見ますとそうではない事が解ります。
 

 

12:27 今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。

 

 

「私は十字架に架かるために来たのだ。」と主イエス様は言われているのです。

 
ですから、この杯の中、この時を過ぎ去らせてくださいと祈られた、その杯の中に
十字架が入っていたから、深い苦しみの中で悶えられたのではありません。
 
それでは、何故、主イエス様は「この杯を私から取り去ってください。」と祈られたのでしょうか。
一体、主イエス様はこの杯の中で何を御覧になったのでしょうか。
 
ガイドの栄子先生は、先程お話しましたように、ガイドで幾度もこのゲツセマネの園を訪れているのですが、ある時、その杯の中をはっきりと見せられたというのです。
 
その杯一杯に満ちているものの正体は、汚いドロドロとした自分の罪だったと言われるのです。
 
ゲツセマネで主イエス様が呑み難い杯を前にして、苦しみ悶えられたのは、
汚(けが)れ果てた醜悪な私の罪を呑み干すためのもがきだったのです。
 
何故なら、神様にとって最も忌み嫌われるものは罪だからです。
その汚れ果て、醜悪な自分の罪が杯の中に満ち溢れていたという事を、
メッセージで聞いたり、本で読んで頭の中で理解し納得したのではなく、
自分の身体で理解し、体得されたのです。
 
そして、「皆さん、私の罪というものはどんな汚いものか。神が裁かれ、刑罰をくださなければならないような、主イエス様でも呑み干す事を本当に躊躇(ちゅうちょ)され、苦しみもがかれたようなものなのです。」と語っておられました。
 
「今のトイレは水洗式ですが、自分の育った日本の田舎では、いわゆる、汲み取り式の便所でした。」"
 
そうです、私の育った沖縄でもそうでした。そして、実際、その汲み取りもしました。"、と私は少女時代を思い浮かべながら聞いていました。
 
「その汲み取り式の便所の便器の底に溜まった糞便の表面は、無数のウジムシが上になり、下になり蠢(うごめ)いていました。私の罪とはそのように醜悪でおぞましいもの、汚(けが)れた汚い、ウジムシ一匹では無い、無数の罪というウジムシが絡(から)みあい蠢(うごめ)いているものです。
 
その杯を主イエス様は呑もうとしておられる。杯の中身を呑み干すという事は、
ご自分の身にその罪を負う事であり、自分自身を罪とする事なのです。
罪の恐るべき裁きと、呪いをご自分の身に真っ正面から受ける事を意味しているのです。
 
この罪が盛られ、罪に満ち溢れた杯が主イエス様の前にありました。
 
主イエス様は苦しみの中で、激しく悶えながら、
私たちの罪が一杯詰まった杯を呑み干されたのです。
この時から主イエス様の姿が変わった事が分るのです。
 
マルコの14章と、15章にその事が記されていますが、ゲツセマネまでは主イエス様は病人を癒されました。ライ病人を癒し、足なえを立たせ、目の見えない人の目を開き、死人を蘇えしめ、そして嵐のガリラヤ湖で「風よ、静まれ。波よ、止まれ。」といって嵐を静められました。また、大群衆に対して、権威をもって神の国を語られました。
 
ゲツセマネの園で、すべての人類の罪の詰まった杯を苦しみ、もがいて呑み干されてからは、そのような神の子としての主イエス様のお姿は見られず、
その時からマルコの14章65節と、同じマルコの15章34節に代表されるように、主イエス様は全ての罪を担われて、罪人として歩まれたお姿を見るのです。
最初に、マルコの14章65節を見てみましょう。

:65 そうして、ある人々は、イエスにつばきをかけ、御顔をおおい、こぶしでなぐりつけ、「言い当ててみろ。」などと言ったりし始めた。また、役人たちは、イエスを受け取って、平手で打った。

 
この主イエス様のお姿は、罪人が受ける嘲り、軽蔑であり、さげすみなんですね。
聖書の他の箇所では鞭で打たれています。
それらは、罪を犯したのは私ですから、私が受けなければならない筈なのに、イエス・キリストが罪人となって受けてくださり、罪人として歩まれたのです。
 
集まった群衆の一人は、「貴方が神の子なら十字架から降りてみよ。」と十字架の足元から罵(ののし)り叫んだのです。
 
主イエス様はご自分の力で十字架から降りる事がおできになったのですが、されなかったのです。
もし、主イエス様が十字架から降りて神の子としてお歩きになっていたら、私たちに対する罪の赦しは永久に閉ざされ、
私たちがその全ての苦しみと呪いを受けなければならなかったでしょう。
 
でも、誰が立ち得たでしょう。人間では立てないから、主イエス様がそこに立ってくださったのです。
 
もう一つは、マルコ15章34節です。
 

 

:34.そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。」と叫ばれた。それを訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。

 

 
罪は神に捨てられ、罪人は神から捨てられなければなりません。
主イエス様は本当にその罪を担われ、真の人間となってくださいました。
 
ですから、罪を持ったまま神から捨てられた者としての死をここで味わわれたのです。
 
罪の裁きは余りにも厳しい。「どうして私をお見捨てになられたのですか。」
 
これは主イエス様が真の人間となられたため、罪を持ったまま神から捨てられた者として裁きを受ける苦しみ、痛みの極み、極限の叫びなのです。
 
皆さん、人間の方から神を捨てた時に、神を知ろうとしない、あるいは、神を求めようともせず、神に逆らい続け、「我に帰れと、ひねもす貴方がたに手を伸ばした。」とおっしゃるその神の手を振り切り、振り払って人間の方から神を捨てた時に、どのように厳しく、神から捨てられなければならないか。ここはそれを示しています。
 
集まった群衆の一人は、「貴方が神の子なら十字架から降りてみよ。」と罵り(ののし)り叫んだのです。
主イエス様はご自分の力で十字架から降りる事がおできになったのですが、降りませんでした。
主イエス様は真の人間、私たちと同じ人間となってくださり、
私の罪を全部引き受けて、もし、十字架から降りたなら、人類に対する罪の赦しの道は永遠に閉ざされたままだったのですが、でも、その罪を全部背負って神に捨てられてくださいました。
 
捨てられるという事がどのようなものか、主イエス様はここで味わっておられるのです。
私たちの心は罪のために鈍(にぶ)らされておりますから、神様から捨てられるという事がどんなに怖いものであるか、
その現実がどんなに厳しいか、という事が本当に解らず、軽く見ているのです。
 
でも、人間は誰もこの神の厳しい裁きの座に立つ事ができないのです。
このような事を行なえば死罪に当たるという神の定めの前に、
私たちはその死罪となる罪を平気な顔をして犯しているのです。
 
私が受けなければならなかったゲツセマネのあの悶え、苦しみ。
 
そしてカルバニーの呪いと死、
 
その全てを主イエス様が私たちの身代わりとなって受けてくださったのです。
 
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以上、抜粋です。
 
ゲツセマネの園でイエスさまが父なる神に取りのけてくださいと祈った杯の中身・・・
 
私はそれを十字架なのか?と思っていましたが
 
その杯の中身は私のおぞましい罪と全人類の罪が入っていて
エスさまはゲツセマネにおいて、それを飲み干さなければならなかったのですね。
 
血の汗を流されたという意味も分かったような気がします。
 
今晩はその事を思いめぐらしています。
 
元記事はこちらになります。