ナルドの香油

あなたは私の隠れ場(詩篇32:7)

ガリラヤのイエス

(映像はオアシス新宿店のストアイベント)

 昨日は家庭集会の後、LYREのスペシャルコンサートに行きました。

最新アルバムを全曲賛美して下さったのですが、その中の曲で「ガリラヤのイエス」の誕生秘話を聞くことができました。

作詞作曲したのは宮脇栄子さんです。(映像 左)

 

昨日、この曲を何で作ったのかという話になった時に、思い浮かんだのは、昔見た「ヨハネ福音書」という、いのちのことば社から出ている、御言葉がそのままで、それに対して俳優さん達がイエスさまの生涯を演じている、そのようなビデオなんですけど、その一番最後のシーンのイエスさまの顔がパッと思い浮かんで泣いちゃったんです。

そういえばこの曲を作った時、そのイエスさまの顔が思い浮かんだんだよな。そのイエスさまはどういう状況だったかというと、十字架につけられて、葬られて、3日目によみがえられて、そして弟子達の所に現れるんですね。弟子達はイエスさまのことを知らないと言って逃げてしまって、イエスさまを裏切ってしまって。でも自分はイエスさまを伝える人間をとる漁師になりなさいと言われて、イエスさまに「ついて行きます」って言ったのに、それでもイエスさまを裏切ってしまったという、そういう気持ちで、もうこれ以上、自分は神様を伝える働きは出来ないと落胆して漁に出て、漁師の生活に戻ってしまっていたと思うんですけど、そのところにイエスさまが現れて下さって3度「イエスさまを知らない」と言ったペテロに、3度「あなたは私を愛しますか?」と聞くんですね。皆さん知っているシーンだと思いますけど、ペテロは裏切ってしまったことが本当に辛くて、それでも私は裏切ってしまったけど、でもやっぱり「イエスさまの事を愛します」って3回言うんですね。そのたびにイエスさまは「私の羊を飼いなさい」って、ペテロにもう一度、神様を伝える働き人になりなさいってイエスさまが語って下さったそのシーンで、思い出すと泣いちゃうんですが、その映像ではイエスさまがペテロに向かって手を差し伸べてニコっと笑って「わたしについて来なさい」と言ったところで終わるんです。そのイエスさまの姿が浮かんで、昨日の夜も泣いてしまったんですけど。本当にね、私たちはイエスさまの事を「愛してます、愛してます、ついて行きます」と言いながらも、ペテロみたいに裏切ってしまうことが沢山あって、こんな私はイエスさまのために何もできないなと思ってしまう私たちだけど、それでも、イエスさまはその私を知っていて、「それでも私を愛しますか?」「それだったら私も愛しているから、私について来なさい」と何度もチャンスを与えて下さる方だなとすごく思って。ガリラヤ湖のそばで、イエスさまが手を差し伸べて「一緒にじゃぁ行きましょう」って言って下さっている、そのような賛美です。皆さんにもイエスさまが一人一人語りかけて下さっています。

という内容でした。

 

今朝、読んだ以下の記事は、それをさらに深く教えて下さる内容で心が震えました。「永遠の愛」「誠実を尽くし続ける愛」、背き続ける民を「わたしは彼を憐れまずにはいられないという愛」そして、愛するひとり子を私たち人間のために十字架に架けて下さるほどの、そして従順に十字架に架かって下さるほどの「強烈な痛みに刺し通された愛」を持って愛して下さる主を主とさせて下さった事に感謝です。

 

ヘブライ的解釈は絶対必要?

思いがけず、以下のような理念を取り入れている団体の「マタイによる福音書」のメッセージを家庭集会のメンバーで定期的に聞き、感想を述べ合うという機会を持っています。

キリスト教ユダヤ的ルーツを持つ宗教であるゆえ、聖書研究におけるユダヤ的解釈が重要視される。著者の意図を汲み取るためには、その書が書かれた時代背景や文化的背景を知る必要がある。異邦人が自分に引きつけて聖書を読んでも、正確な意味は伝わってこない。私達は、ユダヤ的解釈と並行して、字義通りの解釈も強調している(両者には相関関係がある)字義通りの解釈とは、散文は散文として、韻文は韻文として解釈するということである。著者が比喩的表現を採用しているなら、その部分は比喩として解釈するが、本来比喩的表現でないものまで、象徴的、比喩的に解釈し、結果的に著者の意図とは異なった結論を導きだすようなことはしない。

まだ2回しか聞いていませんが、聞いていてとても違和感を感じる事があります。

上記の説明文に「結果的に著者の意図とは異なった結論を導きだすようなことはしない。」とありますが、「著者の意図」?

聖書の著者は「聖霊」なのではないでしょうか。

この団体を導く方は、メッセージの中でも、やたら「マタイが○○○○と言っている」「マタイが・・・」という表現が多いのが気になります。

上記の理念の他に理念の冒頭には 

私達は「聖書は、誤りなき神のことばである」「聖書の原典は、霊感を受けて書かれており、なんの誤りも含まない」と信じる 

と書かれてはいますが、マタイの福音書は「マタイが○○○○」と言っているところに、矛盾を感じてしまいます。

私は共観福音書ヨハネ福音書を読んでいて、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネが表に出てくることはなく、あくまで聖霊によって書かれている神の言葉だとしか捉えた事はありませんでした。

聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。(Ⅱテモテ3:15) 

「すべて」神の霊感を受けて書かれているので、人間が小説を書くように、マタイの「思い」とか「考え」は入っていないと思います。

パウロは厳密に「主が語られている事」と「自分の考え」を分けて書いている箇所があります。 

次に、すでに結婚した人々に銘じます。命じるのは、私ではなく主です。妻は夫と別れてはいけません。(Ⅰコリント7:10) 

次に、そのほかの人々に言いますが、これを言うのは主ではなく、私です。信者の男子に信者でない妻があり、その妻がいっしょにいることを承知しているばあいは、離婚してはいけません。(Ⅰコリント7:12) 

メンバーの感想の中には、「マタイとルカが苦心して残した記事を、私達は余すことなく受け取らなければと思いました。」とあって、聖書は神の摂理、神の目的があって書かれたという部分が欠落しているようにも感じてしまいました。

執筆者が表に出てくることで、ユダヤ人に対する選民性・優位性が強調される結果にも結び付いていくような気がします。

この団体のメッセージではなく、

私が普段メッセージを聴いたり、読んだりする時に

エマオの途上で二人の弟子達が体験した 

「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」(ルカ24:32) 

このような状況になるのは、私の内におられる、「御子について証し」をし、「御子に栄光を帰する」聖霊が、メッセージがその趣旨に沿っている時に、聞く者、読む者の心に働きかけて下さるのだと分かりました。 

わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。(ヨハネ15:26) 

御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。(ヨハネ16:14)

逆にメッセージする側は解釈法やプロセスも重要だけれども、「聖霊の目的」に沿った時に、それらのツールが意味を持つのだという事も分かりました。

ヘブライ的解釈を特別に引っ張り出して来なくても、普通に祈りの心で読んでいけば、御霊ご自身が光を与えて下さるのです。 

 塚本訳1963 Ⅰヨハネ2章

:26 わたしはあなた達を迷わす者たちについて、これらのことを書いたのである。

:27 しかしあなた達は、キリストから戴いた油(すなわち聖霊)が留っているのだから、だれからも教えてもらう必要はない。彼の油が万事についてあなた達に教え るように、またそれはまことであって、嘘ではない。そしてその油があなた達に教えたとおり、(つねに)キリストに留っておれ。  

Ⅱテモテ3章

:15また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。 聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。

:16 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。

人との比較による自己義

Yさんが主宰されている未信者の方を対象とした「聖書の会」に2年前から参加しています。去年までローマ書を1章ずつみんなで読んで来ましたが、未信者の方が月に一度聖書を読むだけでは信仰に結びつくのは難しいと感じています。

Yさんが「求道者伝道テキスト」というものを使用してみようと思い立たれて、今はそのテキストを元に行っています。

先月は「悔い改めて謙遜になりなさい」という学課で、創世記のアダムとイブの箇所から「原罪」についてと、「神の怒りと裁き」について、キリストの十字架による人類の罪の赦し「福音」についての箇所を読みました。その中に 

「あなたは自分が正しい人間だと思いますか。それとも罪深い人間だと思いますか。このことをあいまいにして先に進まないでください。どうか今までの人生を振り返って考えてみてください。」 

と書かれていたので、一人一人立ち止まって、この事についてシェアする事になりました。

Yさんが一番最初に私を指名したので、私自身は罪責感に苦しんでイエスさまに出会ったので、自分が罪深い人間であるゆえに信仰に導かれたと救いの証しを交えて話しました。そしてその後、次の事が思い浮かび伝える事にしました。

罪深さは「人との比較」ではなく、「聖い神との比較」であるという事です。

私の次に感想を述べられた方は、「確かに『自分はあの人よりはまし』と思って、人との比較によって自分はそんなに悪い人間ではないと思ってしまう」と話されていました。

今日こちらの記事を見つけて、明日の「聖書の会」で皆さんにお伝え出来たらいいなと思っています。 

 何度も読んで来た「取税人とパリサイ人」の箇所。パリサイ人の自己義と高慢には目が行っていましたが

違う言い方をすれば、「他人と自分を比較して、自分の方が正しいと思い、それに満足している者」と、「絶対的義の神の前に一人立つことを畏れている者」との違いだろう。

「他人と自分を比較して自分の方が正しいと思い、それに満足している者」という言葉があらためて新鮮に心に届きました。パリサイ人が「神よ、わたしは『ほかの人たち』のような・・・」と言っている言葉に光が当たったのです。

そして取税人が「絶対的義の神の前に一人立つことを畏れている者」という認識も私は薄かったかもしれません。 

それと、私は皆さんに「聖い神との比較」と漠然と話してしまいましたが、その神がどのような方なのかも具体的に聖書から挙げて下さっているのも素晴らしいと思います。 

「光であり、すこしの暗いところもない方」(Ⅰヨハネ1:5)

「全てのことを見ておられる方」(へブル4:13)

「生きている者と死んだ者とをさばくべき方」(Ⅱテモテ4:1)

「からだも魂も地獄で滅ぼす力のある方」(マタイ10:28)

「焼き尽くす火である方」(へブル12:29)

そして何より

「慈愛とあわれみとに富んだ方」(ヤコブ5:11)

「御子を信じる罪びとを義とする方」(ローマ3:23-24;4:5)

であると信じるならば、いくら姦淫を犯さず、週に二度、三度断食をしようが、全収入を献金として捧げようが、主の前に立つときは取税人と同じように「神様、罪人のわたしをおゆるしください」と心から叫ぶしかないはずである。

皆さんがこの最後の境地まで導かれますように。

この事を思い巡らしていたら、三浦綾子さんの書かれた絵本「したきりすずめのクリスマス」も思い出されました。すずめの舌を切ったおばあさんは、すずめのお宿で欲張って大きなつづらを貰って帰りますが、その中にはお化けが入っていました。おばあさんが「助けて~」と叫んでいると、イエスさまが現れて、あれは、お化けではなく、おばあさんの心の姿だと言うのです。

3つ目小僧は欲深い心の姿(目は2つで良いのに3つもある)

口裂け女は、いじわるの姿

焼き餅はやきもちの心の姿

おばあさんは自分の罪を認め「何とみにくい私でしょう。何とおそろしい私でしょ。」と悔い改めに導かれ、人の罪を、代わって背負って救ってあげるのが仕事だと言うイエスさまがおばあさんの罪も「背負ってあげますとも」と言い「罪を悔い改めた人は みんな救われるのです。」ともおっしゃて下さいました。

一方、小さなつづらを選んだおじいさん。

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 おじいさんは、イエスさまに、おばあさんのように欲深くもなく、いじわるでもない事を感謝し、人殺しのような者でないことを感謝します。「何一つ罪を犯さず、正しく生きてきたので、イエスさまに重い荷物を負わせずにすみます。」と言います。そんなおじいさんに、イエスさまは、かなしそうに言います。

「そうですか、おじいさん。しかし、世界中に全く正しい者は、ただの一人もおりません。」けれど、おじいさんは、「ここに私がいるではないか」と自信を持って言います。ところが「これがあなたの本当の姿です。

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傲慢の姿です。私は、あなたの言葉を聞いてかなしく思います。自分には罪がないと思っているほど大きな罪はないのですよ。これは神様の一番嫌いな、重い罪ですよ。むしろ、おばあさんよりも罪が深いと言えるでしょう。」「自分の罪が分からねば、悔い改めることができません。罪はそのまま残るのです。」とイエスさまに言われ、おじいさんは目が覚めてイエスさまに赦しを乞うのです。

おじいさんも「人との比較」によって、自分の正しさを量っていたのでした。

この絵本も紹介できたらいいなと思っています。 

心に癒しと解放を グレース・トキ 一番大切な事が抜けていた・・・

エリヤハウスで学ばれた、グレース・トキさんの「心に癒しと解放を」を④まで転載してきましたが、肝心な事が抜けている事に気が付きました。。。

「十字架」が抜けているのです。

本来、エリヤハウスは 

①認識・・・ まず「自分に」悪い実を実らせた、悪い種があることを認めること

②告白と悔い改め・・・基本的な鍵。罪深いパターン(裁き、赦せない心、嫌悪感、誓い、偽りを信じる)など悪い種から悪い実を刈り取っていることを告白し、悔い改める。

③赦し・・・癒しの鍵。聖霊さまに働きをお任せすると、赦しは現実的になり、心からのものになる。喜んで赦すことを選ぶことが始まり。

④十字架につける

古い方法やパターンを十字架の死につける。

⑤新しい命を注ぐ

新しい命、新しい方法、変革

(祝福を祈ってあげる。悔い改めたことと反対の肯定的なことを祈ってあげる) 

以上がエリヤハウスのミニストリーの基本です。

私たちはイエスさまと一緒に2000年前に十字架につけられ葬られているのですが、古い人、古い性質は以前として残っています。それは実によって、例えば人間関係のトラブルなど、繰り返し起こる問題などを通して明らかになります。そのような実には必ず根があるので、それを聖霊の導きによって示して頂きます。

そしてそのような古い人、古い性質を認識したら、それは既に2000年前にイエスさまと一緒に十字架について死んでいるのだ!!と告白し十字架の元に行くこと・・・この働きがエリヤハウスが行っている事であり、そのツールとして「石の心」「内なる誓い」「偽りの恥」「パフォーマンス志向」などがあるのだと思います。

 

以上で一連の記事は終了することにします。  

心に癒しと解放を グレース・トキ④ 父の愛を妨げるもの

今回は人生に「悪い実」を結ぶ4つの心についてお話したいと思います。

【石の心】

「石の心」とは、私たちが自分の心を頑なにし、自分自身の弱さや他人から心を守ろうと壁を作ってしまうことです。しかし、その壁はあなたを孤立させてしまいます。

「石の心」は過去に受けた傷の痛み、ストレス、不満足などから心を守ろうと幼少期に作られたものです。多くの場合、「石の心」は隠されています。無意識のうちに、神の愛や人との親密な交わりを拒否してしまいます。

「石の心」を持つ人は、周囲に悪い影響を与えます。冷たい心、頑なな態度、自己中心などが芽吹くからです。その人がクリスチャンの場合、頭では「自分は思いやりのある人でなければならない」と知っているので、奉仕はします。しかし、誰かがその人に向かって「あなたのために祈らせて」「ヒーリングセミナーがあるから行こうよ」と言ったら、「結構です。大丈夫ですから」と拒否します。

【内なる誓い】

内なる誓いは、自分に対する「呪い」と言えます。子どものころに誓約して、忘れている場合がほとんどです。内なる誓いは見つけるのが難しく、かつ強力なものです。瞬間的、潜在的であることが多いためです。過去の「苦い根」(③参照)による裁きが関わっていることもしばしばです。

例えばアルコール中毒の父を持った子どもは「父は臆病で自分勝手である」と裁き、「自分の力で生きていかなければならない」と誓います。

虐待的な母に育てられた子どもは「母親は信用できない」→「私は人を愛さない」と、誓ってしまいます。

【偽りの恥】

水運びを仕事にしている人がいました。彼は両肩に器を提げて川に行き、主人に水を運びます。片側はきれいな器、もう片側はひび割れていました。

ひび割れた器からは水こぼれて汲んだ水の半分しか残らないので、器は自分を情けない、恥ずかしいと思い、この男性に話しかけました。「私のせいで本当に申し訳ありません。私は自分が本当に恥ずかしい」

男性は器を憐れんで言いました。「私が毎日通る道を見てごらん。あなたのひび割れを知っているので、道の一方に花の種を植えました。その花を私は主人の食卓に供えている。主人はとても喜んでいますよ」

私たちも同じように「自分はひび割れた、つまらない器だ」と嘆くことがあります。神様はその不完全さすら用いることができるのですが、神ではなく自分に焦点を合わせているため、「偽りの恥」が心を支配します。

「本当の恥」は「行動」に焦点を合わせています。それは成長の過程で良い経験にもなります。「本当の恥」は「失敗してしまった」と正面から認めることができる恥です。「偽りの恥」は、ゆがんだ価値観と自己像から来ます。欠点ばかりの自分を見られ、拒絶され、人間関係がうまく築けないことを恐れます。そのため深い劣等感を伴います。ほめられても「自分がやったことは不十分だ」と思い、批判を受けとめることもできません。「偽りの恥」は心の痛みをやわらげるため、本当の自分を隠すための「仮面」をつけます。私たちはあまりに長い間、この仮面をかぶっているので、仮面をつけていることすら忘れます。役割によって仮面をつけかえることもします。そうやって、自己が失われ、虚しさだけが残ります。

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【パフォーマンス志向】

パフォーマンス志向の人は「人に認められて初めて自分に価値があると思える」タイプの人です。そのため、一定以上の業績を上げようと努力します。一方とても防衛的で、批判を受け入れることができません。また怒り、不安、孤独などの感情を力で抑え込みます。完全主義者であり、自分で作り上げたルールに縛られています。

 

自分に思い当たる節がありましたか?もしそうなら主に感謝しましょう。心の癒しと解放は「気づく」=「自分自身の問題を認識すること」から始まるからです。気づいたら、主の前に悔い改め、告白し、相手や自分を赦すのです。

自分の心の痛みを見つめたり、仮面を外すことは痛みを伴います。しかし、タマネギのように、一皮むけたら次の皮がむけていきます。

滝の上で綱渡りする名人を想像してください。あなたは名人に背負われておます。あなたに求められているのは、自分が何かをするのではなく、力を抜いて名人と一つになるぐらい自分を名人に任せることです。

エスさまも同じことを私たちに求めています。あなたの心からどんなに汚いことが出てきても心配ありません。ただ、自分の力を抜いてイエスに頼ってください。

心の癒しと解放を グレース・トキ③ 苦い根と赦さないこと 

 

今回は、私たちの心に根を張る「苦い根」と「赦さないこと」についてお話したいと思います。

【負の感情が繰り返す】

言うまでもなく根には栄養分を吸収する働きがあります。私たちが天の父なる神の愛に根ざしているなら、良い実を結ぶための栄養を吸収します。しかし私たちが赦さない思いや怒り、恥などの種を心に蒔くと、そこから苦い根が生え、悪い実を結びます。そして種を蒔いた本人だけでなく、他の人をも裁き、汚します。リンゴの種がパイナップルをならせることはないのです。

マタイ7:17-18にこうあります。「良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実をならせることはできないし、悪い木が良い実をならせることもできません」

私たちが良い種を蒔けば良い収穫を刈り取ることができるように、「苦い根」にもまた、同様の「刈り取りの法則」が働きます。私たちは常に、自分が蒔いたものを刈り取るのです。

ガラテヤ6章 

:7 思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。

:8 自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。

 苦い根からは多くの場合「裁き」の実を刈り取ります。自分を傷つけた相手を赦さないでいると、苦い根が広がり、相手を裁きます。そして人々から同じように裁かれ、傷付けられることになります。

ローマ2章

:1 ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。

:2 私たちは、そのようなことを行なっている人々に下る神のさばきが正しいことを知っています。

「苦い根」は人や神様からの愛をも妨げます。また「苦い根」に支配された人は、何かがあるといつも悪い方向に予想する習慣が身についています。自分の心の中に「苦い根」があるかどうかは、鬱や怒り、パニック、恐れ、心配などの「負の感情」が繰り返して起こるかどうかで分かります。人間関係に現れる場合もあります。なぜか自分に害を加える人に近寄ってしまうのです。あるいは、知り合った人がしばらくすると自分から離れていきます。

【復讐の権利を捨てて】

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イラストを見て下さい。誰かを「赦さない」と思っていることは、ゴミの詰まった袋を抱えて歩くようなものです。だからハエ(負の感情や人間関係のトラブル)がたかります。「ハエが去っていくように」と祈っても、ゴミの袋を持ったままならハエは必ず戻ってきます。この人の後ろにいるのは悪霊です。「赦さないこと」を引きずっていると悪霊が大きな機会を与えます。悪霊は私たちをとがめ、恥を植えつけます。レイプ、虐待、殺人・・・。世の中には、本当に多くの不条理があります。しかし、私たちが自分を正当化したり、頑固だったり、プライドが邪魔をすると、私たち自身に害を加えるのです。

私たちを傷つけた人は、そのことを忘れているかもしれない。自覚していないかもしれない。しかし、私たちが「あの人を赦せない」と思うたび、手に持った鞭で自分の背中を叩いてしまっているのです。そして「自分を守らなければ」と自分の周囲の壁を築いてしまいます。その壁はあなたを守るのでなく、人生に破壊をもたらすのです。もしあなたが自分や相手を赦さないでいると、これから先の幸福も妨げられます。

愛、喜び、平和の実を結ぶ代わりに落胆、失望、悲しみの実を結びます。おろかな口論や無益な分裂の元にもなります。

私たちが赦したと思っていても、実際には心の奥底に苦々しい気持ちを持ったままでいることがあるかもしれません。神様に明らかにして頂きましょう。

「赦す」ことが、あなたの心からの苦々しさを解き放つ鍵となります。感情が破裂する前に、あなたの痛みを主に捧げて下さい。主が赦して下さったように、赦してください。報復する権利を捨てましょう。復讐は何の解決にもなりません。神様が取り計らって下さいます。

 ローマ12章

:17 だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。

:18 あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。

:19 愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」

 「忘れなさい」と言っているのではありません。それは、心の奥底に押し込んでいるだけです。神様の望む自由な人生を生きるために、前進しましょう。私たちには大切な神の召しがあります。

第一回目に書きました。心のいやしには4つのプロセスがあります。

①認識 ②悔い改め ③告白 ④赦し

です。

あなたの中に「苦い根」や「赦せない心」があると認識したら、今、一緒に祈りを捧げましょう。

神様、私の心には痛みがあります。「苦い根」に支配されていたこと、「赦せない心」を握りしめていたこと、この痛みのために多くの人に害を与えてしまったことを悔い改めます。そしてあなたに委ねます。主よ、私の心を清め、私に害を与えた人を赦せるように助けてください。

心に癒しと解放を グレース・トキ② 心をチェックしよう

 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。(ローマ8:14-15)

 神様と正しい関係が築かれているとき、私達の心は健康です。正しい関係とは、父なる神の無条件の愛を信じ、「自分は神の子である」と認識できる状態のことです。

過去に受けた傷が原因で心が閉ざされて無条件の愛が感じられないとき、私達は自分が孤児であるかのように思います。そして「何とか認められたい」と必死に努力して期待に応えようとします。努力が成功すれば幸せですが、「失敗したらどうしよう」との恐れや失敗からくる落胆という悪循環に飲み込まれてしまいます。

あなたは神の子どもですか。孤児ですか。15の質問からなるチェックリストを作ってみました。それぞれの質問に対し、AかBかに丸印をつけて下さい。知識としてある正しい答えでなく、今のあなたの素直な気持ちで答えてください。

Aが多いほどあなたの心は健康です。Bが多くても落ち込んだり自分を責めないで下さい。自分の心を客観的に見るためのリストなのです。具体的な心の癒しについて述べる前に、あるエピソードを紹介したいと思います。

一人の男がチョウのさなぎを見ていました。外に出ようと何時間ももがくチョウを気の毒に思い、男はハサミでさなぎを切りました。チョウは出て来ましたが飛ぶことができず、早く死んでしまいました。

私達の心が変化する過程も同じです。チョウが苦しむ事によって体の中からエネルギーを絞り出すように、ほとんどの場合、神様は苦しみや困難を通して私達を成長へと導きます。今、あなたが困難の中に置かれているなら、それは神様が用意されたものです。目の前の困難でなく神様の目的、哀れみ、恵み、癒しに焦点を当てて下さい。そして、今までの殻を破って美しく飛び立ちましょう。 

(1) 私にとって神様のイメージは
A:愛にあふれたお父さん。自分が息子や娘のように感じる

B:怒りっぽい主人。自分は召使い、奴隷

(2) 私と神様の関係は
A:お互いの必要を認め、互いに頼りながら生きている

B:神様から自立している。頼れるのは自分だけ

(3) 神様との間にある「神学」は

A:愛の律法である

B:律法を愛することである

(4) 私は神様から
A:無条件の愛によって完全に受け入れられ、恵みによって罪が赦されている

B:条件的。褒められ、認められ、受け入れてもらえるために努力する

(5) 私が奉仕する動機は

A:無条件に愛されていることへの深い感謝の心から

B:神様や他人から認められることによって個人的な達成感を得るため

(6)私がクリスチャンとして鍛錬される動機は
A:楽しいことであり喜び

B:義務であり神様からの好意を得るためのもの。あるいは全く何もしない。

(7) 私が純潔を保つ動機は

A:神様との親密な関係の邪魔になるものは何もほしくないから

B:神様の好意を得るため「聖くなければならない」と考え、罪と恥を気にする

(8) 私自身のセルフイメージは

A:神様にある自分の価値を知っているので前向き、肯定的

B:他人と比べて自分を否定することが多い

(9) 私の慰めは

A:神様との臨在と愛の中に休息を得るために一人で静かな時間を過ごす。

B:会社や教会での忙しさで忘れようとする。現実逃避、強迫観念、中毒など

(10) 私と友達との関係は

A:他人を認め、謙遜と一致がある。友達の成功と祝福を喜ぶ

B:ライバルであり競争している。友達の成功や所有物に嫉妬する

(11) 私は他人の失敗に

A:愛と寛大さによって対応し、立ち直るようにする

B:非難し、自分を良く見せるために公の前でその人を悪く言う

(12) 私にとって「権威ある人」とは

A:敬意を払い、自分の人生に益をもたらす神のしもべである

B:苦痛であり、信頼がない。従順になろうとする心がない

(13) 私にとって他者からの「訓戒」とは

A:「人生に必要なこと」と受け入れるため、失敗や欠点に支配されないB:自分が正しいち信じているので受け入れるのが困難。心を閉ざす

(14) 私の愛の表し方は

A:オープンで忍耐強く、優しい

B:自分の必要が満たされるために他人が何をしてくれたかによる。条件的

(15) 私のビジョンは

A:神の愛の代表として家族や他の人々へ遣わされること

B:何かを達成し、優秀であることに熱心で、成熟した人と認められたい