祝福を追い求めたヤコブの背景と動機
ファミリーフォーラムジャパンの記事に夫婦、親子間における祝福する事の大切さについて書かれている文章がありました。
その文章を読んで、ヤコブがどうして祝福を求めて格闘したのか、その背景と動機が分かったような気がしています。
本来の記事の趣旨とは着眼点が違いますが、一部抜粋(編集)したものを下記に載せます。
創世記32章
:22 しかし、彼はその夜のうちに起きて、ふたりの妻と、ふたりの女奴隷と、十一人の子どもたちを連れて、ヤボクの渡しを渡った。
:23 彼らを連れて流れを渡らせ、自分の持ち物も渡らせた。
:24 ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。
:25 ところが、その人は、ヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのもものつがいを打ったので、その人と格闘しているうちに、ヤコブのもものつがいがはずれた。
:26 するとその人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」しかし、ヤコブは答えた。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」
:27 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は答えた。「ヤコブです。」
:28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」
:29 ヤコブが、「どうかあなたの名を教えてください。」と尋ねると、その人は、「いったい、なぜ、あなたはわたしの名を尋ねるのか。」と言って、その場で彼を祝福した。
:30 そこでヤコブは、その所の名をペヌエルと呼んだ。「私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた。」という意味である。
:31 彼がペヌエルを通り過ぎたころ、太陽は彼の上に上ったが、彼はそのもものためにびっこをひいていた。
:32 それゆえ、イスラエル人は、今日まで、もものつがいの上の腰の筋肉を食べない。あの人がヤコブのもものつがい、腰の筋肉を打ったからである。
日頃の生活において人々を「祝福」することはどのようなことでしょうか。
特に夫婦や親子関係においてどうなのでしょうか。それは感謝、称賛や感嘆、そして愛情を表現し、受け取ることから始まります。
家族の誰であろうとその存在と努力に感謝を表すことは「祝福」の重要な要因の一つです。
夫も妻も子供もお年寄りもみんなお互いから肯定される必要があるのです。この「肯定」という言葉に相当する聖書の言葉は「祝福」。それは私たちみんなが欲しいものなのです。
創世記1:26−27で神は男女をご自分の形に創造されましたが、その直後の1:28に「神は彼らを祝福された。」とあります。
つまり、神は人を肯定し、彼らに笑顔を輝かせ、彼らを元気付け、彼らを喜んだということです。神がしたことから私たちも見習うことができます。
創世記の続く章において神は繰り返し、人々に祝福の言葉を与えています。そしてこれは聖書の大切なテーマの一つとなります。この点で目立つ聖書の人物はヤコブですが、彼がどのように祝福を追い求めたかを理解してみましょう。
名前が「侮る者」と言う意味だったことに関連し、そして父親の愛情と肯定がなかったことにも関連し、しかし同時に神から与えられたアブラハムの契約に対する情熱のためにヤコブは夢中になって「祝福」を恋慕いました。しかし、特に若い時には、それを不適切な方法で追い求めたのです・・・偽りや操りで。しかし、叔父のために働き始めたら、自分が騙されたり、操られたりする側になってしまい、喧嘩だらけの家族生活に呪われてしまったのです。
そんな人生を送ったヤコブがどんなに肯定されること、祝福されること、身近な者たちから愛情と称賛と感謝を経験することに飢えていたかを十分想像できます。
しかし、その願いは、人生のクライマックス・・・すなわち受肉前のキリストとの夜通しの格闘の時まで叶えられなかったのです。
格闘の相手だった「人」(受肉前のキリストと思われていますが)が立ち去ろうとした時、ヤコブは彼に必死にしがみつき、「私を祝福してくださらなければ、あなたを去らせません」と要求したのであります。(創世記32:26)
それに対し戻ってきた言葉は、「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」(創世記32:28)
神の子ご自身がヤコブに新しい名前を含んだ、これ以上もない祝福と肯定の言葉をくれたのです。
私たちの学ぶべきことは、私たちがこの人生において最も必要としている肯定は神の祝福であると言うこと。
しかし、それは耐え忍んで求め続けなければならないものであると言うことです。
旧約聖書には「もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。」(エレミヤ29:13)とありますし、イエスも「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(マタイ7:7)と言われました。
また、ペテロは次のように言っています。
「あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。(1ペテロ3:8−9)
これによるとこの世での人間関係の大切な目標は相手を祝福することですが、私たちはキリストに従う者であり、家族のメンバー(特に結婚関係)を祝福することが一つの目的になります。※(最後の3行のみ編集)
以上になります。
ヤコブが夢中になって祝福を追い求めた背景は「父親の愛情と肯定がなかったこと(父イサクはエサウを愛した)、同時に神から与えられたアブラハムの契約に対する情熱」の為であった事が分かりました。
ヤコブがどんなに「肯定されること」「祝福されること」「身近な者たちから愛情と称賛と感謝を経験すること」に飢えていたか。
だからヤコブは必死にしがみつき「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」と夜明けまで受肉前のイエスさまと格闘したのです。
私もヤコブと同様に両親から「肯定されること」「祝福されること」「身近な者たちから愛情と称賛と感謝」を経験した事がない為、未だに神さまからの愛を感じられないところがあります。既にキリストの十字架と復活によって祝福は豊かに与えられ、注がれているのにそれが見えていない状態です。
昨日は月に一度の家庭集会でしたが、何かの話の流れで、神さまの愛が未だに分からない事を伝えると、主催者のJさんが「その気持ちとても良く分かる。私も10代で救われたけれども、母親から受けた心の傷が原因で、頭では神の愛は理解できるけれど実感として分かるようになったのは、母親から受けた扱いがDVの一種だったのだと分かり、癒しを体験した50代になってからだった」と話して下さいました。そしてすぐに「祈りましょう」と言って祈って下さったのでした。
その祈りの中に次の御言葉がありました。
この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(ローマ5:5)
これまでずっと「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」という御言葉を読んでも理解できませんでしたが、Jさんの祈りと、この御言葉が心の深いところに届いて心が温かくなり涙が出ました。Jさんも一緒に泣いていました。
神の愛を知る基礎として親から「肯定されること」「祝福されること」「愛情と称賛と感謝を経験すること」は大切な事なのだとあらためて思わされました。
けれど何より一番大切な事は
「私たちの学ぶべきことは、私たちがこの人生において最も必要としている肯定は神の祝福であると言うこと。」
人からの祝福(肯定)ではなく、ヤコブが求めた主の「祝福」(肯定)の啓示を受ける事が出来ますように。
息を吸う毎に
Don Moen - As The Deer [with lyrics]
鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、
神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。
私のたましいは、神を、生ける神を求めて
渇いています。
いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。
私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした。
人が一日中
「おまえの神はどこにいるのか。」と私に言う間。
私はあの事などを思い起こし、
御前に私の心を注ぎ出しています。
私があの群れといっしょに行き巡り、
喜びと感謝の声をあげて、祭りを祝う群衆とともに
神の家へとゆっくり歩いて行ったことなどを。
わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。
御前で思い乱れているのか。
神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。
御顔の救いを。(詩篇42:1-5)
神よ。あなたは私の神。
私はあなたを切に求めます。
水のない、砂漠の衰え果てた地で、
私のたましいは、あなたに渇き、
私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです。
私は、あなたの力と光栄を見るために、
こうして聖所で、あなたを仰ぎ見ています。
あなたの恵みは、いのちにもまさるゆえ
私のくちびるは、あなたを賛美します。(詩篇63:1-3)
私は、裕福さを感じられるよう莫大な資産を持つことを欲し、次の日主に頼らなくてもすむように、何年分もの大きなたくわえを持つことを欲しました。しかし、主は決してそのようなたくわえを私に与えて下さいませんでした。その都度必要とする以上の聖潔や癒しを、私は決して持ちませんでした。主は言われました、「私の子よ、あなたは次の一息のために私のもとに来なければなりません。私はあなたをとても愛しているので、常にわたしのもとに来てもらいたいのです。もし私があなたに多く与えるなら、あなたは私なしで物事を行ない、あまり私のもとに来なくなるでしょう。あなたは毎秒私のもとに来て、毎瞬私の胸によりかからなければなりません。」A.Bシンプソン 「主ご自身」より
ある姉妹の証し
アカペラ4声 讃美歌461番 主われを愛す Jesus Loves Me in Japanese
今日はBible Study Fellowship(BSF)でしたが、託児奉仕の日でした。
私と一緒にベビーの託児に入られたのは、お孫さんがおられる年配の女性でした。
ご主人の家族が全員クリスチャンなのですが、彼女は何か暗さを感じて、信仰を持つ事をずっと拒否し続けていたそうです。
去年からBSFに参加するようになり、BSFの聖書教師の女性やメンバーのみんなが明るく、希望に溢れているのを見て影響を受け、少しずつ気持ちが変えられていきました。
学びをしている中で、黙示録6章1節の「来なさい」という言葉をイエスさまから直接語りかけられ、「はい、行きます」と応答して昨年、洗礼を受けられたそうです。「頑なな心を持っていたので、信仰を持つのに40年以上かかりました」と笑いながら話してくれました。
また、99歳の母親が脳梗塞を起こした後、せん妄状態にあるのですが、そのせん妄の中で、
と歌った後
「神さま、あなたは私を愛して下さいますか?
私はあなたを愛しています。
全能の神さま、
私に命を与えてくださった神さま」
と言われたそうです。
お母さんは5歳の時の一時期、日曜学校に通っていただけでクリスチャンではなく、その時の記憶が残ってたのか、せん妄状態であるのに主を賛美されたようです。
このような事があるので日曜学校の働きは大切だと話しておられました。
聖書の学びは出来ませんでしたが、一人一人を不思議な方法で導かれる、主の生きた証しを聴く事が出来て感謝な一日でした。
託児の赤ちゃん達はイエスさまの愛に満たされていて、みんな終始ご機嫌でした。
※お母様は日曜学校で賛美歌を歌う時に聞いたオルガンの影響で、その後、音大に進まれたというのも神さまの摂理を感じました。
セルフイメージ vs 古い人を死に定める
多くのクリスチャン・カウンセラーが、心理学によって得られた洞察を正しく用いながらも、心理学の考え方にとどまってしまうという誤ちを犯しているため、結果として多くの混乱が生じていることに気付きました。
心理学ではセルフイメージを修正することで、自分に自信が持てるようにします。
しかし、キリストは私たちの肉的な自信を葬り去ることで、私たちに唯一残されたセルフイメージが、「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(ピリピ4:13)となるようにされるのです。
セルフイメージとは、私たち自身が建て上げ、誤って頼るようになるものです。
セルフイメージは必然的に私たちを、そのイメージを守るため、またほかの人が見て褒めてくれるためという自己中心的な努力に駆り立てます。私たちはそのイメージを守り、築き上げ、建て直さなければならなくなるのです。
しかし、クリスチャンのアイデンティティは賜物として与えられるものであり、神が私たちの内に建て上げてくださるものなので、人から見られたり、認められたりする必要も、自分の力で守っていく必要もないのです。
クリスチャンのいやしは、壊れたものを何とかもう一度使い物になるように修復するのではなく、その壊れたものによって支配されることから私たちを解放し、壊れたものは壊れたままで、その中に、またそれを通して主の義が輝くのだということに信頼できるようにするものです。
この世の考え方では壊れたものを修理し、プライドや自信を建て直そうとします。しかし、主はこう言われます。「我々は一切の手を加えることなく直そう。その壊れたものを神の栄光を顕すために用い、その罪を知ったことから、神の御霊が我々を通してキリストの御性質の麗しさを褒め歌い、全ての人がそれを知るようになるということに、日々新たに信頼していこう。」
「あなたにすべての栄光を帰するように気を付けます」などどわざわざ言わなくても、自分がすでに罪の中に死んでいることを充分に理解すれば、当然すべての栄光は主のものとなるのです。私たちは何一つ、良いことなどしません。神がすべてを成し遂げてくださるのです。
その意味では、魂にはいやしなどあり得ません。死と再生があるのみです。
旧約聖書では魂の回復というものが語られていますが(詩篇23:3.19:7など)クリスチャンはたえずそれを、死とイエスの義による再生という意味に置き換えて捉えなければなりません。
ローマ書
6:4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
6:5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
6:6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
6:7 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
6:8 もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。
まさにこの神学上の転換点において、クリスチャン・カウンセラーの多くは、相談者の船を座礁させてしまっています。他人のセルフイメージを(私たちの内におられるキリストから離れたところで)建て直そうとする人は誰でも、十字架に逆らって働いていることになるからです。
ガラテヤ6:12-14の「割礼を強制する」という部分を「自分のセルフイメージを見出し、そのセルフイメージのために生きることを強いる」に置き換えて、この箇所を読み直してみてください。
ガラテヤ書
6:12 あなたがたに「自分のセルフイメージを見出し、そのセルフイメージのために生きることを強いる」たちは、肉において外見を良くしたい人たちです。彼らはただ、キリストの十字架のために迫害を受けたくないだけなのです。
6:13 なぜなら、「セルフイメージのために生きる」人たちは、自分自身が律法を守っていません。それなのに彼らがあなたがたに「自分のセルフイメージを見出し、そのセルフイメージのために生きることを強いる」のは、あなたがたの肉を誇りたいためなのです。
6:14 しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。
良いものも悪いものも、私たちの中に築き上げられた性格はすべてキリストにあって死に、再形成されなければなりません。聖化とは、堕落した習慣を一つ一つ取り除き、やがてはその人の性質全体が美しく輝くようになる過程を意味するのではありません。
自分自身が完全な姿に造られているどころか、実は完全に堕落しているのだということを知り、イエスにあってそのことを安心して受け入れられるようになることなのです。
私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。(ローマ7:18)
5:21 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(Ⅱコリント5:21)
私たちがこのように、自分が完全に堕落した存在であることを悟るとき、私たちの砕かれた心を通して主のご性質が輝き、その栄光を現すのです。
イエスの十字架での死は単なる肉体的な死ではありませんでした。イエスはあらゆる面において私たちの罪そのものになられて、心と頭、魂と肉体の全てにおいて、死を体験してくださったのです。このような完全な死の状態からイエスは私たちを、主にあって新しく造られた者として甦らせてくださるのです。ですから私たちは新しく造られた者なのです。
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(Ⅱコリント5:17)
それでもまだ危険性が残ります。それは、イエスという光輝く新しい塗装の下に錆のように存在する自己の堕落した性質が、私たちが主に背を向けるやいなや、再び自己主張しようと待ち構えていることを忘れてしまう危険です。
私たちは結局のところ、自分がそこそこ良い人間であると思いたいのです。「確かに悪いことも多少はしてきた。しかし、その代価はイエスによって支払われたのだから、これからは神によって本来造られた『いい人』になれる」と考えているのです。
けれども皆さん、そうではありません。表面の皮を剥がしたら中から良いものが出てくるのではなく、全体が堕落しているのです。ですから、しなくてはならないことは、「古い人をその行いと一緒に脱ぎ捨てて、新しい人を着る」(コロサイ3)ことです。身にまとうことによって、私たちは新しい性質を得るのです。
教会にこれまで欠けていたのは、日々キリストにあって死に、再生することでした。
この死と再生がもうすでに成し遂げられたと私たちは勝手に歌ってきましたが、本当はまだその過程が始まったばかりなのです。
救いは私たちの行いによるのではなく、神からの無償の賜物である。(エペソ2:8-9)と書いた使徒が、別のところでは「恐れおののいて自分の救いを達成してください」(ピリピ2:12)と書いています。
イエスの血潮は罪を洗い清め、十字架は贖い、義とし、罪の代価を払います。
そして復活は回復をもたらし、新しい命を与えます。
しかし、私たち自身が日々自分の十字架を背負うことによってのみ、古い人を死に定めるという必要不可欠なことを、継続して行っていくことが出来るのです。
この継続的な聖化の過程が日々十分に起こってこそ、一人一人のクリスチャンとしても、またキリストのからだ全体としても、成熟した信仰の人が現れるのです。(エペソ4:16)
【内なる人の変革 ジョン&ポーラサンフォード】
以上、長い引用になりましたが、大事な事はセルフイメージを建て上げることではなく
【私たち自身が日々自分の十字架を背負うことによってのみ、古い人を死に定めるという必要不可欠なことを、継続して行っていくことが出来るのです。】
の部分だと思います。
聖霊は私たちの古い人(古い生き方、古い考え方、偽り、罪)を日々、色々な状況を通して示してくださいます。
それらは既に十字架上で「死刑になったのだ」と認識し祈る時に、解放され、新しいいのちに生きていけるのだと最近教えて頂きました。
私たちクリスチャン一人一人が、また教会の群れが成熟した信仰の人になるためには、この過程を日々通る事が必須であると思います。
あなたは、わたしをだれだと言いますか
マタイの福音書
16:13 さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々は人の子をだれだと言っていますか。」
16:14 彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」
16:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
16:16 シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」
16:17 するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。
16:18 ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。
16:19 わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」
16:20 そのとき、イエスは、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と弟子たちを戒められた。
以前、エホバの証人の方と一緒に聖書を読んでお話した時期がありましたが、この聖句の中の
「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
という質問は、いずれ信仰者一人一人が御子の前に立つ時に質問される、とても重要な意味を持つ質問だと実感しました。
異端と言われる宗教はキリストの「神性」を認めていません。
聖書には「神の子」と書いてあるのであって、「神」ではないと言います。
もしキリストが「神」であるなら、「父なる神」と「子なる神」がいて神がお二人おられる事になり多神教になってしまうからです。
けれど聖書は父子聖霊でお一人の神だと書いてあります。そしてその事を霊的に知ることができるとしたら、それは
16:17 するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。
神からの啓示なのです。
16:18 ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。
の箇所から、ペテロ(岩)の上に教会を建ててしまい、教皇を中心とする教会制度となっています。
※カトリック教会では伝統的に教皇の地位と権威が聖書に由来するものであるとしている。特に重視されるのはマタイによる福音書の16:18-19のイエスのペトロに対する言葉である。(ウイキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E7%9A%87)
けれど、ここでイエスさまがおっしゃっている
「わたしはこの『岩』の上にわたしの教会を建てます」の「岩」とはシモン・ペテロの信仰告白の言葉
「あなたは、生ける神の御子キリストです。」
という言葉なのです。
「生ける神」つまりキリストは「永遠から永遠に生きておられる神性を持つ神の御子」であるという事です。
クリスチャンがキリストを「神の御子」という時は「神性を持つ神」であることを意味しています。
教会はこの信仰告白の言葉である「岩」を土台としたものでなければなりません。
全ての異端はこの「岩」がありません。
そして当時、ユダヤ人達は旧約聖書を読む際に、神の名(YHWH)をヘブル語で「アドナイ」、ギリシャ語で「キュリオス」と読み替えていましたが、ペテロ達、十二弟子達が以下の御言葉にあるように
「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」(ローマ10:9)
「イエスを主(キュリオス)と告白する」という事は、「キリストは神である」と告白する、命がけの告白だったのです。その為にペテロ達はユダヤ教から迫害を受け殉教していったのです。
新約聖書の書簡後半は異端との戦いが随所に垣間見られます。
Ⅰヨハネ
2:22 偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう。御父と御子を否認する者、それが反キリストです。
2:23 だれでも御子を否認する者は、御父を持たず、御子を告白する者は、御父をも持っているのです。
4:15 だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。
「あなたは、わたしをだれだと言いますか」
御子との「交わり」はこの「岩」の啓示を受けた時に始まるのだと思います。
※紀元前3世紀初めごろから翻訳の始まった『七十人訳聖書』では、原語のヘブライ語での「יהוה(ヤハウェ)」が置き換えられ、ほとんどの箇所で「主」を意味する「Κύριος(キュリオス)」と訳されている。
このことから、この頃にはこの名がアドナイと読み替えられていたのであり、バビロン捕囚以後の300年ほどの間にそのまま発音することが禁忌とされるようになったと考えられる(ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%A7)
上にあるもの
+++++++++
★今日のみ言葉★
+++++++++
「上にあるもの」
前回のみ言葉を覚えていますか。
上にあるものを求めなさい、というみ言葉でした。
では、上にあるものとは何でしょうか。
=========
ヤコブ 3:17
しかし上からの知恵は、第一に清く、次に平和、寛容、温順であり、あわれみと良い実とに満ち、かたより見ず、偽りがない。(口語訳)
上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。
憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。(新共同訳)
But the wisdom that is from above is first pure, then peaceable, gentle, willing to yield, full of mercy and good fruits, without partiality and without hypocrisy.(NKJV)
=========
上にあるものが何であるかが分かりますね。
ここでは知恵と言われています。
知恵と言えば、頭の働きのようですが、上からの知恵は、どちらかと言えば、心に触れるものです。
平和(平安)、寛容、温順、あわれみをすでに経験しておられる方は、それは上からの知恵であると受け止めていますか。
そこには偏見や偽善的なものはありません。
聖書の中で、「新しく生まれる」という言葉がありますが、あそこは「上から生まれる」とも訳されているところです。
この地上のもの以上に上にあるものを求める、その人は上から生まれた人だからです。
どう思いますか。
浜崎英一
待っていて
+++++++++
★今日のみ言葉★
+++++++++
「待っていて」
主なる神を信じるあなたやわたしは、主を待ち望む者たちです。
ところが、待っているのはわたしたちだけではありません。
誰が待っているのでしょうか。
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イザヤ 30:18
それゆえ、主は待っていて、あなたがたに恵を施される。
それゆえ、主は立ちあがって、あなたがたをあわれまれる。
主は公平の神でいらせられる。
すべて主を待ち望む者はさいわいである。(口語訳)
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主は何を待っておられるのでしょうか。
別に待たないで、何でもご自分の思うことをやって下さってよいと思うのですが。
主が待っておられるのは、信仰をもってご自身を求める人です。
ヘブル 11:6
信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。
神に近づく者は、神がおられることと、神ご自身を求める者には報いてくださることを信じなければならないのです。(私訳)
何かをではなく、神ご自身を求める人、その人はまた、主を待ち望む人です。
浜崎英一