ナルドの香油

あなたは私の隠れ場(詩篇32:7)

別の神

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★今日のみ言葉★
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「別の神」

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エレミヤ31:3
主は遠くから彼に現れた。
わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。
それゆえ、わたしは絶えずあなたに真実をつくしてきた。(口語訳)
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聖書が教えているこのような神の愛と真実、それは嘘ではなく、本当だとは知っている。
けれども正直なところ、心の内には、自分はまだまだその愛を受けるだけの者ではない。
まだ、いろいろやるべきことが出来ていない。納得できるような結果も出せていない。
だから、まだ神のそのような愛が受け取れるものではない、と思っているところがある。
神の愛も、所詮は理想の話であって、現実はそんなものではない。
その点で自分はまだまだ、努力が足りない怠け者である。
神もきっと、自分のことをそのように思っておられるはずだ。

こんな風に思っている人は、聖書の教えている神のことを聞かされて、頭の知識としては分かっていても、自分の心の中にしっかりと根付いている別の神をもっている人だと言えます。
どう思いますか。

浜崎英一

あわれみは、さばきに向かって勝ち誇る

 

マタイの福音書

25:31 人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。 

25:32 そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、

25:33 羊を自分の右に、山羊を左に置きます。

25:34 そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。

25:35 あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、

25:36 わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』

25:37 すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。

25:38 いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。

25:39 また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』

25:40 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』

25:41 それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。

25:42 おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、

25:43 わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』

25:44 そのとき、彼らも答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』

25:45 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』

25:46 こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。」

この箇所は新共同訳聖書の小見出しのタイトルは「すべての民族を裁く」となっていて、他にも「人の子の裁き」というタイトルがつけられているものもありました。

「今は恵みの時、今は救いの日」(Ⅱコリント6:2)であり、イエスさまは救い主ですが、次にイエスさまが来られる時は裁き主として来られます。 

救われてすぐ、聖書を読んでいて怖いと思った箇所の一つです。

エスさまの十字架と復活が自分の罪の為であったと信じて救われても、ここに書かれている事を行っていないなら、最終的には永遠の刑罰に入ることになるんだ・・・。

私にはできないかも・・・。 

この箇所の解説として次のように聖書に書き込んでいました。

「この愛のわざが救いの条件の功徳となるのではない。ここに列挙されている愛のわざは、彼らが正しい人であることの根拠なのではなく、その証拠であることを示す。

それは彼らが知らずにした彼らの信仰から生じた「良い実」である。

愛のわざは、その人にほんとうの信仰があったことの目に見える証拠となる。

そういう証拠が最後の審判の時に本当の信仰と見せかけの信仰を区別するために必要になってくる。

私たちが救われるのは、まことの信仰によってである。」 

キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。(ガラテヤ5:6)  

ヤコブ゙書

2:14 私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。

2:15 もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、

2:16 あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。

2:17 それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。

2:18 さらに、こう言う人もあるでしょう。「あなたは信仰を持っているが、私は行ないを持っています。行ないのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行ないによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。」 

ヤコブ書の上記の箇所を最初に読んだ時には 

救い=信仰+行い!? 

と思ってしまいましたが、これは異端のグループになります。 

ヤコブがここで何を言っているかというと

「本物の信仰には必ず行いが伴う」と言っているのです。

クリスチャンは信仰によって救われます。 

救い=信仰のみ 

罪が赦され、

永遠のいのちが与えられ、

心が新しく造りかえられる。

これを経験したなら生き方が変わります。

「行ない」は、救われた「結果」であり、救われるための「手段」ではないのです。

 

さらに今日はヨハネ10章の良い羊飼いの箇所を読んでいましたが、そこからエゼキエル34章を開いてみました。

前半は自分を肥やしているイスラエルの牧者たちにに対する主の糾弾が語られます。 

エゼキエル書

34:1 次のような主のことばが私にあった。

34:2 「人の子よ。イスラエルの牧者たちに向かって預言せよ。預言して、彼ら、牧者たちに言え。神である主はこう仰せられる。ああ。自分を肥やしているイスラエルの牧者たち。牧者は羊を養わなければならないのではないか。

34:3 あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊をほふるが、羊を養わない。

34:4 弱った羊を強めず、病気のものをいやさず、傷ついたものを包まず、迷い出たものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力ずくと暴力で彼らを支配した。

34:5 彼らは牧者がいないので、散らされ、あらゆる野の獣のえじきとなり、散らされてしまった。

34:6 わたしの羊はすべての山々やすべての高い丘をさまよい、わたしの羊は地の全面に散らされた。尋ねる者もなく、捜す者もない。

34:7 それゆえ、牧者たちよ、主のことばを聞け。

34:8 わたしは生きている、――神である主の御告げ。――わたしの羊はかすめ奪われ、牧者がいないため、あらゆる野の獣のえじきとなっている。それなのに、わたしの牧者たちは、わたしの羊を捜し求めず、かえって牧者たちは自分自身を養い、わたしの羊を養わない。

34:9 それゆえ、牧者たちよ、主のことばを聞け。

34:10 神である主はこう仰せられる。わたしは牧者たちに立ち向かい、彼らの手からわたしの羊を取り返し、彼らに羊を飼うのをやめさせる。牧者たちは二度と自分自身を養えなくなる。わたしは彼らの口からわたしの羊を救い出し、彼らのえじきにさせない。 

後半は良い羊飼いについて語られます。

34:11 まことに、神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする。

34:12 牧者が昼間、散らされていた自分の羊の中にいて、その群れの世話をするように、わたしはわたしの羊を、雲と暗やみの日に散らされたすべての所から救い出して、世話をする。

34:13 わたしは国々の民の中から彼らを連れ出し、国々から彼らを集め、彼らを彼らの地に連れて行き、イスラエルの山々や谷川のほとり、またその国のうちの人の住むすべての所で彼らを養う。

34:14 わたしは良い牧場で彼らを養い、イスラエルの高い山々が彼らのおりとなる。彼らはその良いおりに伏し、イスラエルの山々の肥えた牧場で草をはむ。

34:15 わたしがわたしの羊を飼い、わたしが彼らをいこわせる。――神である主の御告げ。――

34:16 わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。わたしは、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは正しいさばきをもって彼らを養う。

 この箇所を読んだ時に、羊に対する主の「愛」と「憐れみの心」を強く感じました。

特に「34:16 わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。わたしは、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは正しいさばきをもって彼らを養う。」のところです。

何だかマタイ25章の「愛のわざ」と同じ事を語っているようです。 

 この良い羊飼いはエゼキエル34章23-24にイエスさまであると預言されています。

 34:23 わたしは、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。

34:24 主であるわたしが彼らの神となり、わたしのしもべダビデはあなたがたの間で君主となる。主であるわたしがこう告げる。

  主の霊に満たされた者は、主の「愛」と「憐れみ」が心に注がれて、主にある兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりに「愛のわざ」を自然に行うことができるのだと思いました。

羊として右側に選ばれるか、選ばれないか、永遠の火という「裁き」に遭うか、遭わないかの「恐れ」など無しに。

ヤコブは言っています。

2:13 あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです。

そして、この人たちは永遠のいのちにはいるのです。

新しい歩み、生き方

ヨハネ8章を読んでいます。姦淫の場で捕らえられた女の話から始まります。

塚本訳を読んで、小さいけれど新たな発見がありました。

塚本訳1963

7:53 【人々はそれぞれ家にかえったが、

8:1 イエスはオリブ山に行かれた。

8:2 次の朝早く、また宮に行かれると、人々が皆あつまってきたので、座って教えておられた。

8:3 すると聖書学者とパリサイ人とが、姦淫の現行犯を押えられた女をつれてきた。みんなの真中に立たせて、

8:4 イエスに言う、「先生、この女は姦淫の現場を押えられたのです。

8:5 モーセは律法で、このような女を石で打ち殺すように命じていますが、あなたはなんと言われますか。」

8:6 こう言ったのは、イエスを試して、訴え出る口実を見つけるためであった。イエスは身をかがめて、黙って指で地の上に何か書いておられた。

8:7 しかし彼らがしつこく尋ねていると、身を起こして言われた、「あなた達の中で罪(をおかしたこと)のない者が、まずこの女に石を投げつけよ。」

8:8 そしてまた身をかがめて、地の上に何か書いておられた。

8:9 これを聞くと、彼らは皆(良心に責められ、)老人を始めとして、ひとりびとり出ていって、(最後に)ただイエスと、真中に立ったままの女とが残った。

8:10 イエスは身を起こして女に言われた、「女の人、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罰しなかったのか。」

8:11 「主よ、だれも」と女がこたえた。イエスが言われた、「わたしも罰しない。おかえり。今からはもう罪を犯さないように。」】 

 この文章中の以下の箇所に目が留まりました。

8:9 これを聞くと、彼らは皆(良心に責められ、)老人を始めとして、ひとりびとり出ていって、 

民衆が自分達は「罪のない者」ではないと理解はしていて立ち去ったという事は分かっていましたが、その時に「良心に責められ」るような強い「悔い改め」の心が生じていたとは気が付きませんでした。

そして

エスがひとり残された。(ヨハネ8:9 新改訳)

 この一文を読んで、地面に字を書かれているイエスさまだけが、大きく目に飛び込んで来ました。

エスさまだけが、ただお一人「罪のないお方」なので、その場に一人留まられることが出来た事が深く心に迫りました。(Ⅱコリント5:21,Ⅰペテロ2:22)

民衆は「罪のない」神であるイエスさまに直に会い、直にその言葉を聞いたので「悔い改め」の心が生じたのではないかとも思いました。 

それから、人を裁くことが出来るのは、罪のない神ただお一人であって、私たち人間には人を裁く権利はないのだとあらためて理解する事ができました。

8:10 イエスは身を起こして女に言われた、「女の人、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罰しなかったのか。」

8:11 「主よ、だれも」と女がこたえた。イエスが言われた、「わたしも罰しない。おかえり。今からはもう罪を犯さないように。」

以下は、どこからかの解説を読んで聖書に書き込んでいました。

「なぜイエスさまはこの時、婦人を裁かれなかったのか?彼女の罪をご自分が背負われて、彼女が受けなければいけない刑罰をご自分が引き受けることによって、彼女を赦して下さるためだった。

「イエスはこの女の罪を見過ごし、軽んじたのではなく、イエスは彼女を罪から救い、姦淫の女に変えられた新しい生き方をするように告げた。」

「キリストの十字架」によって私の数々の罪が赦されたこと、そしてその罪を行っている「古い人」がキリストと共に十字架に付けられた事によって初めて、「罪の奴隷」「罪の支配」から解放されて自由になる(ヨハネ8:32)こと、そして御子が「復活」された時に私も御子の内に入れられているので、御霊の導きによる「新しい生き方」ができるようになるのだと思いました。

 

私は「新しい歩み、生き方」が出来ているだろうか?(ローマ6:4)

まだ自分は「罪の奴隷」になっている部分があることを認めます。

罪には何らかのメリットがありますが、それは一時的なメリットで、最終的に滅びに至るものです。(ローマ6:20-21)

サタンの策略に騙されないようにしなければなりません。

 

エスさまご自身がいのちを捨ててまで、「この世」から私を取り出して下さった(ヨハネ15:19)のに、それなのにまだ、「この世の罪」と手を切らない自分は、イエスさまをもう一度十字架に架けるような者(ヘブル6:5)になってしまうのだと深く悔い改めに導かれた朝でした。 

このように、キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉体において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ちました。

こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。(Ⅰペテロ4:1-2)  

互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。(コロサイ2:9)

十字架の愛

 

伝道に燃え

傷付いた人の傍にいて話を聴いたり

聖書を読んだり

賛美をしたりして

恵まれた素晴らしい日々を過ごしているように思っていました。

 

昨日、次女と一緒に出席した教会で礼拝賛美を歌っていると

「十字架の愛」

から、いつしか離れてしまっていたような、忘れてしまっていたような気がして

心からの悔い改めに導かれました。

いつも「十字架の愛」を思って歩んでいきたいと思わされた日曜日でした。

 

【あなたの愛に】  MEBIG

あなたの愛に  ただ ひざをかがめ

両手を高く   高く上げ 歌う

あなたの愛に  ただ こころふるえ

胸を たたいて 御前に ひれ伏す

十字架の愛が  こころの 底まで届いて

こころは    どこまでも高く

あなたを    たたえる

 

 

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幼稚園の時に何度かこの教会の日曜学校に行って以来、大人の礼拝に初めて参加した次女への教会からのプレゼント。書かれている言葉に感動します✨

 

追記:「十字架の愛にこころがふるえる」を深く黙想しました。

歌詞の「胸をたたいて御前にひれ伏す」という取税人の祈りに似た部分が自分の罪の大きさを自覚させ、その私の罪のために十字架に架かられた御子の愛が、あらためて心の底に届いたという意味でこころがふるえました。

悪い霊の影響を受けやすい領域は? 

マタイ

12:43 汚れた霊が人から出て行って、水のない地をさまよいながら休み場を捜しますが、見つかりません。

12:44 そこで、『出て来た自分の家に帰ろう。』と言って、帰って見ると、家はあいていて、掃除してきちんとかたづいていました。

12:45 そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みなはいり込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。邪悪なこの時代もまた、そういうことになるのです。 

あなたの生活の中で悪い霊の影響を受けやすい領域はどんな事ですか?

クリスチャンの中に悪霊がいるということはあり得るのか、クリスチャンは神の神殿なのだから悪霊は住むことはできないという人もいます。

けれど神はどこにでも偏在できる方、そういう意味で神も悪霊も同じ領域にいることもできるし、ヨブ記で神とサタンは会話をしている。神と悪魔が一緒に存在している。

エペソ書6:16に「信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます」とあるので信仰の大盾を持っていなければ火矢を受けることもある。

使徒の働きにアナニヤとサッピラの話がありますが、使徒5:3「そこで、ペテロがこういった。『アナニヤ、どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか』」とありますが、原語では「サタンに心を奪われて」の「奪われて」はエペソ5:18の「聖霊に満たされなさい」の「満たされ」と同じ言葉が使われている。

クリスチャンでも悪霊に憑かれる、神と悪霊二つのものに支配されることはあるのか、答えはNO。 

「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい」(Ⅰコリント6:19.20) 

とあるので、もはや自分自身のものではなく、代価を払って買い取られたのだから悪霊に憑かれることはない。しかし悪霊に「憑かれる」「憑かれない」の問題ではない。

悪霊は「支配」は出来ないが外側から「攻撃」したり、「いじめ」たりできる。

・病気、疾患を通して。(ルカ13:11-13)

・私たちの思いに入って偽りの考えを吹き込むことができる。(Ⅰテモテ4:1)

心理的混乱(Ⅰサムエル16:14)

・対人関係にトラブルを持ってくる。夫婦関係、親子関係、友人関係など

ニューエイジ的考えに人々を導く (使徒16:16) 

・「罪」があるとそこに働く悪霊がいる。罪があるなら「open the door」になっている。

・悪霊が働く「足場」となる罪は「繰り返し行われる罪」

・「赦さない事」も罪であり、赦さない心は「自分で毒を飲みながら、相手が死ぬのを待っている」ようなもの。早めに赦す。24時間かかっても赦し続ける。「赦さない心」は悪魔が「アクセス」する「足場」を作る。

他にも

・イエスキリストの力を自分の自己中心の目的のために使う。

・性的な罪、混乱、倒錯(Ⅰコリント5:1-5)

・罪を悔い改めない人は罪が何回も繰り返されていること。

・いつまでも怒りを持っていること。(エペソ4:26-27)

・世代から世代へ受け継がれた罪(代々子どもを中絶する家族など)

悪霊の影響は段階的に進む。 

ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。(ヤコブ4:7) 

あなたの「意志」が必要。あなたがこれに「戦おうとする決心」が必要。

けれども「受け身、無抵抗」なら、「対抗する力」がなくなる。

   「解放と内面の癒し」から覚書    マーク&テリー・ベナベンテ 

神と共に歩む

『これこそ預言者ミカの言うところの「神と共に歩む」ということではないでしょうか』というコメントを読んで、ミカ書を再読したいと思っていました。

一昨日は一日おきに送られてくる大津バプテスト教会の浜崎牧師の『聖書のみ言葉の黙想』もミカ書でした。

それがきっかけで昨日、今日でミカ書を読んでいます。 

 前半はイスラエルとユダの罪に対する告発、サマリヤの陥落、裁きはユダにまで及ぶことが預言される。

その後、捕囚からの解放や終わりの日にもたらされる王国の預言、メシヤ来臨の予告へと続いていきます。

中でも私の心に迫ったのは、ミカ書6:1-9 でした。

6:1 さあ、主の言われることを聞け。立ち上がって、山々に訴え、丘々にあなたの声を聞かせよ。

6:2 山々よ。聞け。主の訴えを。地の変わることのない基よ。主はその民を訴え、イスラエルと討論される。

6:3 わたしの民よ。わたしはあなたに何をしたか。どのようにしてあなたを煩わせたか。わたしに答えよ。

6:4 わたしはあなたをエジプトの地から上らせ、奴隷の家からあなたを買い戻し、あなたの前にモーセと、アロンと、ミリヤムを送った。

6:5 わたしの民よ。思い起こせ。モアブの王バラクが何をたくらんだか。ベオルの子バラムが彼に何と答えたか。シティムからギルガルまでに何があったか。それは主の正しいみわざを知るためであった。

6:6 私は何をもって主の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。全焼のいけにえ、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか。

6:7 主は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。私の犯したそむきの罪のために、私の長子をささげるべきだろうか。私のたましいの罪のために、私に生まれた子をささげるべきだろうか。

6:8 主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。

6:9 聞け。主が町に向かって叫ばれる。――御名を恐れることがすぐれた知性だ。――聞け。部族、町を治める者。 

 主は「奴隷の家」であるエジプトから紅海を二つに分けて乾いた地を歩いて渡らせて救い出し、モーセとアロンとミリヤムを送って下さった。そしてモアブの王バラクがベオルの子バラムにのろわせて、滅ぼそうとした時に、かえって祝福させました。また「シティムからギリカルまでに何があったのか」それは紅海を渡ったように、ヨルダン川をも渡らせて下さいました。6:5「それは主の正しいみわざを知るためであった。」は新共同訳聖書では「主の恵みの御業をわきまえるがよい。」となっています。 

6:3 わたしの民よ。わたしはあなたに何をしたか。どのようにしてあなたを煩わせたか。わたしに答えよ。 

の言葉が強く迫ってきます。煩わせるどころか、こんなにまでして恵みの御業を主はして下さっているのに、イスラエルの民は主に反逆したのです。

この事に心が刺され、では何をもって主の前に進み行き、いと高き神の前にひれふそうか・・・とミカは言います。「幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。自分の長子を捧げるべきだろうか・・・・。」 

6:8 主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。 

イザヤ

57:15 高く、あがめられて、永遠にいまし/その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み/打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり/へりくだる霊の人に命を得させ/打ち砕かれた心の人に命を得させる。(新共同訳)

66:2 これらすべては、わたしの手が造ったもの、これらすべてはわたしのものだ。――主の御告げ。――わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。 

主が「求めておられること」、また「神と共に歩む」とは日々、「悔い改め」である事が分かりました。 

詩篇

51:1 神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。

51:2 どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。

51:3 まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。

51:4 私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。

51:5 ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。

51:6 ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます。それゆえ、私の心の奥に知恵を教えてください。

51:7 ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。

51:8 私に、楽しみと喜びを、聞かせてください。そうすれば、あなたがお砕きになった骨が、喜ぶことでしょう。

51:9 御顔を私の罪から隠し、私の咎をことごとく、ぬぐい去ってください。

51:10 神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。

51:11 私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。

51:12 あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。

51:13 私は、そむく者たちに、あなたの道を教えましょう。そうすれば、罪人は、あなたのもとに帰りましょう。

51:14 神よ。私の救いの神よ。血の罪から私を救い出してください。そうすれば、私の舌は、あなたの義を、高らかに歌うでしょう。

51:15 主よ。私のくちびるを開いてください。そうすれば、私の口は、あなたの誉れを告げるでしょう。

51:16 たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。

51:17 神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。

51:18 どうか、ご恩寵により、シオンにいつくしみを施し、エルサレムの城壁を築いてください。

51:19 そのとき、あなたは、全焼のいけにえと全焼のささげ物との、義のいけにえを喜ばれるでしょう。そのとき、彼らは、雄の子牛をあなたの祭壇にささげましょう。 

その時、へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させて下さるのです。

「しかし」

『しかし』

昔は、「衣食足りて礼節を知る」と言われていました。
食べる物や着るものがないために泥棒をしたり、犯罪を犯す人たちもいたのです。
ですから、衣食が足りるようになれば、人はまともな人間になるという意味です。
ところが、今は、衣食が足りていながら、事件や問題が起こっています。
今日、あなたもわたしも急速に家庭崩壊が進んでいる時代に生きています。
経済は豊かになって、食べるものにも事欠かない時代となってもです。
人間の問題は、衣食が十分足りても、無くならないということがハッキリしてきました。
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ミカ書7:6~7
むすこは父をいやしめ、娘はその母にそむき、嫁はそのしゅうとめにそむく。
人の敵はその家の者である。
しかし、わたしは主を仰ぎ見、わが救の神を待つ。わが神はわたしの願いを聞かれる。(口語訳)
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今から2800年前の預言者ミカの時代もその家の者が敵となるというようなことがあったようです。
同じ屋根の下で生まれた育った息子が父親に反発し卑しめ、娘がその母親に背き、嫁と姑もうまくいっていない状態です。
どんなにお金があっても、立派な家に住んでいても、敵と一緒に生活しなければならない、そんな家庭は大変です。
しかし、と続いています。
目に見える人間の悲惨な罪深い現実にも関わらず、しかし…です。
目に見えない神を信じている、しかし、悲しい現実の問題はなくならない、という人たちもいます。
目に見える人間の現実と、目に見えない神の霊的な現実のどちらに立つかが「しかし」の問題であり、信仰の問題です。
あなたはどちらの「しかし」に立とうとしていますか。

浜崎英一