ナルドの香油

誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。(エレミヤ9:24)

真理への愛

今朝はⅡテサロニケを読んでいます。次の聖句を読んでいたら、ローマ書の聖句が思い浮かびました。

Ⅱテサロニケ2章

:9  不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、

:10  また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行われます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。

:11 それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす霊を送り込まれます。

:12 それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。 

ローマ1章

:20 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。

:21 というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。

:22 彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、

:23 不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、撮り、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。

:24 それゆえ、神は彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。

:25 それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン

:28 また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのために彼らは、してはならないことをするようになりました。 

 ローマ書の1章では異邦人(未信者)が「彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。」とあり、その結果「また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され」たと書かれています。

Ⅱテサロニケ2章ではクリスチャンになった者について書かれていますが

「なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。」その結果、「それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす霊を送り込まれます。」と書かれていて、救われたと思っていても「真理への愛」を受け入れないなら、惑わす霊を送り込まれ「それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。」とあり、とても厳粛な気持ちと悔い改めの気持ちが生じました。

「真理への愛」とは何でしょう。また私たちはどうしたらこのような者にならないでいられるのでしょうか。 

Ⅱテサロニケ2章

:13 しかし、あなたがたのことについては、私たちはいつでも神に感謝しなければなりません。主に愛されている兄弟たち。神は御霊による聖めと、真理による信仰によって、あなたががたを、初めから救いにお選びになったからです。

:15 そこで、兄弟たち、堅く立って、私たちのことば、または手紙によって教えられた言い伝えを守りなさい。

:16 どうか、私たちの主イエス・キリストであり、私たちの父なる神である方、すなわち、私たちを愛し、恵みによって永遠の慰めとすばらしい望みとを与えてくださった方ご自身が、

:17 あらゆる良いわざとことばに進むよう、あなたがたの心を慰め、強めてくださいますように。 

私たちは主イエス・キリストの十字架と復活故に「御霊による聖め」を受けていること。その御霊は日々、働きかけて私たちをイエス・キリストに似た者とする「聖化」の過程へと導かれます。もし、宣教だけを念頭に置いて「聖化」の過程が疎かになり、「御霊の実」が成っていない状態なら、一度立ち止まり「真理への愛」を受け入れているのか確認した方がいいのだと思いました。

私たちは旧約聖書の「律法」からは解放されていますが、新約聖書に書かれている多くの「私たちのことば、または手紙によって教えられた言い伝え」があります。

その御言葉を守り行い、聖霊のかすかな声を聴いたなら「悔い改め」ていきたいと思います。

 「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。そのためには、あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように・・・」(ヘブル12:14~15) 

 私たちが、主イエスによって、どんな命令をあなたがたに授かったかを、あなたがたは知っています。

神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。(Ⅰテサロニケ4:2-3)

離婚の原因

周りを見渡すと離婚率の高さに驚かされます。身近にいる方で離婚された方、また離婚に向かって話を勧めている方のご夫婦の様子を聞くにつけ、ご本人達の親の問題をそのまま継承していたり、親子関係の歪み「両親を赦さない事」「親子逆転」「代理配偶者」

親子逆転と代理配偶者 Ⅱコリント12:14 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.6.28: いのちのことば

「偽りを信じる」などの問題、つまり「罪」の影響のせいだと思っています。

この「罪」の問題が解決されないと、夫婦は本来神さまが造られた素晴らしい関係になる事はないのだと思わされています。

既に離婚している人、離婚に向かって進んでいる人が主イエスに出会い、その罪の問題に目が開かれ、悔い改めに導かれる時に初めて幸せな夫婦、家族となるのだと思います。もしかすると離婚していたご主人と元に戻る可能性もかなりの確率であるような気がしています。

精神薬のフラッシュバック

主人が「2週間くらい前から、ずっと頭の中が『気持ちが悪い』ので脳神経外科で見てもらう」と言って病院を受診しました。色々な検査をした結果、どこにも異常は見つかりませんでした。

元々首の骨の軟骨と軟骨が圧迫されている事は整形外科を受診して分かっていたので、医師にそれを伝えると、その事が影響しているかもしれないと言われ、薬を3つ出されました。

まさか・・・と思って確認すると三つの内、二つはまたしても「精神薬」でした。

①アンナカ「ヨシダ」

ジアゼパムセルシンサン1%)

③エペリゾン塩酸塩

小学校の同級生が精神医療問題を世に発信して本も出版しているので状況を説明したところ、色々アドバイスを下さいました。

アンナカ…は歌手のASUKAが捕まった薬で、ジアゼパムもかなり問題のある薬であること。

頭の気持ち悪さは「クスリのフラッシュバック」によるものの可能性が高い事。

「薬物は例外なく脂溶性なので、極めて長期間(10年・20年以上)脂肪組織の中に残留し続けます。これが何かの拍子に血液中に戻ってくるときに起きるのがフラッシュバックです。ですから、いつ何時、どのように起きるかは神のみぞ知る…というところなんです。それだけに怖いですね。」

「ここで、精神薬を飲んだら元の木阿弥」と私が懸念している事と同じ事を言ってくれたので、主人にも上記を伝えて、何とか飲むのを思いとどまってもらいました。本人は症状があるから飲みたくて仕方ない様子でしたが・・・。

主人は「精神薬」とその他の薬の線引きを知りたいと言うので、その事も確認すると 

正式名は精神神経製剤。以下の薬種に該当するものは全て含まれる。
抗うつ剤
・中枢神経刺激剤
統合失調症治療薬(メジャートランキライザー
抗不安薬マイナートランキライザー
睡眠薬
睡眠導入剤
ADHD治療薬
・抗パーキンソン病
・抗てんかん
認知症治療薬
基本的な薬理作用は麻薬と同じです。従いまして多くの精神神経製剤は「麻薬および向精神薬取締法」の規制対象薬物となっています。 

という事でした。

また、今回の事とは関係ありませんが以下の事も教えて下さいました。

・精神薬を服用すると精神薬は身体から徹底的にミネラルやビタミンを排出してしまう。

・ミネラルやビタミンが欠乏している状態ではなにをやるのも辛く、クスリを抜く場合、離脱症状に勝つことは極めて難しく、過酷な状況を生み出す。

・ミネラルを大量に補給(サプリメントでも可)、魚のダシ粉(100%魚や海藻の粉のもので添加物の入っていないもの)を食事に大量に混ぜるのも有効

 

頭が「痛い」ではなく、頭が「気持ち悪い」というのでおかしいと思っていました。5年前まで5年間飲み続けた「パキシル」と「エビリファイ」「デパス」のフラッシュバックなのだと思います。

幸い、主人の症状は軽減しており、クスリを飲まなくて本当に良かったと思っています。

友の渇き

昨日はYさん主催の未信者を対象とした「聖書の会」でした。

私は2年くらい前から声をかけて頂いて参加しています。

この会に今、神さまが働かれていて

お二人が6月に信仰告白をされ

もう一人はご主人との問題を抱えて苦しんでいるので、夏休みに教会の牧師にカウンセリングをして頂く事になっています。

さらに、もうお一人はずっと聖書の会に参加されていなかったのですが、数か月前から急に参加されるようになり(来ても会が終わる頃の参加が多かった)、やはりご主人との関係、子どもの不登校の事などの悩みを抱え、先月の会では涙を流しておられました。

「『聖書の会』が今の自分にとって大切な場所です。」とおっしゃり、

昨日は開始時間前に到着し、真剣な顔で聖書の学びに取り組む姿勢、一言も漏らさないように聞き入る姿勢に彼女の「渇き」を強く感じ圧倒されました。

「渇き」を癒す事ができる唯一のお方、主イエス御自身に彼女が出会い、永遠のいのちへの水がわき出ますように。 

エスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4:14) 

今日はOL時代の親友に会いに東京駅に行って来ます。彼女は私に「愛」を教えてくれた人です。当時、罪責感に苦しむ私を励まし、肯定的な言葉を沢山かけてくれました。入社1年で部内異動にあって、その課で働く事に誇りと夢を持って働いていたのが1年でその夢が断たれて落ち込んだ私に「上司はMIKUちゃんの事を何も分かっていない」と怒って一緒に泣いてくれました。

彼女は今、シングルマザーでお子さん二人を抱えて頑張っています。今日は久し振りにお互いの近況報告をして来ます。イエスさまの証しも携えて行ってきます!

イシュマエル(4)

【イシュマエルもイエス・キリストの型では?】

さて、この稿で今回のテーマの締め括りにしたいと思うが、先回はレビ記16章の二頭のやぎの記述が、一つは犠牲のために選ばれ、もう一つはアザゼル(追放または荒野の意)のため、汚れや罪咎を負わされて荒野へと追放される。実はこの罪のあがないの儀式は、今尚ユダヤ教の中で連綿として守られているという。アザゼルのやぎは荒野をさまよい、やがては疲労と渇きと飢えで死ぬ。それを見届ける伝令の報がシナゴーグに届くと「あなたの罪咎は赦された」という横断幕が掲げられるという。

僕の推論では、この二頭のやぎをアブラハムの二人の息子、イシュマエルとイサクに当てはめた。即ち犠牲のためにとっておかれるやぎはイサク

アザゼルのやぎはイシュマエルに符号すると考えた。

最初にこの聖書箇所を読んだ時に気が付かされた二つの物語の長さが等しいこと、真ん中にあるベエルシェバ(七つの井戸)の話を要に左右に並べられていること。そしてこの両方の記事の書き方に均等性がある。

これを分かりやすく表にしてみると以下のようになる。 

(イサク)創世記22:1-19

・神がイサクの名をつけられた。

・朝、早く、アブラハムはろばに鞍をつけ・・・

・イサクをほふろうとした時、神の声があった。

・角をやぶにひっかけた雄羊をみつけた。

・神のイサクの子孫への祝福の約束

・ベエルシェバに住み付いた

(イサクの年齢は15-16才くらい) 

創世記21:22-34 (ベエルシェバ)

アブラハムがアビメレクから七匹の子羊の代価で、ベエルシェバの井戸を買い戻す。(七つの井戸の意味) 

(イシュマエル)創世記21:9-21

・神がイシュマエルの名を与えられた。

・朝早く、アブラハムはパンと水の皮袋を取って・・・

・荒野で力尽きたとき、神の声があった・・・

・井戸を見つけた(ベエルシェバのあたりで)

・神のイシュマエルの子孫への祝福と約束

・パランの荒野に住み付いた

(イシュマエルの年齢は16才くらい) 

こうして表にしてみると、いかに二つの記事が同じように書かれているかが分かる。そして二人とも神が名前を付け、神がその行動を容認されている。そして両方ともに子孫への神の祝福が約束されている。そして一方はベェルシェバの泉でいのちを救われ、もう一方はベエルシェバに住み付く。このベエルシェバとは何か、両方の物語の最中に突然現れてくる事情であり、中心に置かれた物語。それはアブラハムが奪われた井戸を七匹の子羊の代価で買い戻す話である。聖書で7の数字は完全を表わす。完全な子羊、すなわちイエス・キリストによる買い戻し、「贖い」を意味するのではないだろうか。そしてその井戸はベエルシェバ(七つの井戸)と呼ばれる。つまり完全な井戸、ヨハネ4章のスカルの井戸でイエスが言われた

「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」(ヨハネ 4:14) 

 と言われたその井戸を意味するのではないだろうか。

このように解釈することができないだろうか。イシュマエルの物語も、人間のあらゆる不条理な罪を負わされて、十字架の上で一時的にも父なる神から捨てられたイエス・キリストを意味しているのではないだろうか。もちろんイサクの物語はイエス・キリストの贖いの子羊としての十字架を示していることは当然のことである。各々が神の贖いの方法を分担していることで、二人の息子は等しく、イエス・キリストを示している。そしてその中心にイエスが与える永遠のいのちの水が示されている。

イスラム教では昔からアブラハムがモリヤの山で神に捧げたのはイサクではなく、イシュマエルであったと主張している。ぼくもエルサレムに行ったが、エルサレムの神殿の岡、かつてモリヤの山だった所、そしてソロモンの神殿が建っていた所にイスラムのモスク、黄金ドームが建っている。その中には今でも下にモリヤの山の岩が敷かれている。イスラムの人々も神に選ばれたのは私達だと主張し続けている。そこから争いが生まれる。

今日も尚、イサクとイシュマエルの子孫たちは対立をくりかえしている。イスラエルパレスチナの土地をめぐっての紛争は解決の目処さえ見えない。双方にそれぞれの言い分がある。長い彼らの歴史を見ると、イサクの子孫であるユダヤ人はAD70年にローマ帝国により国を滅ぼされ、故国を追われディアスポラとして世界中に散らされた。これはイシュマエルの体験をなぞったことになる。そしてナチスによるホロコースト(全焼のいけにえ)ユダヤ人は「ショアー」と呼ぶ。正にイサクがモリヤの山に献げられたように600万人ものユダヤ人がガス室で焼かれた。その犠牲の上に今日のイスラエル建国がある。

イシュマエルの子孫たるパレスチナ人もまた1948年5月のイスラエル国独立により故国を追われたのである。そして二つの民族の対立は今も続いている。国連や諸大国もこの問題解決に手をつけかねている。

エスが十字架におかかりになる少し前に、数人のギリシャ人がイエスの所を訪れた。彼らはイエスに何を求めたのだろうか。パウロは「ギリシャ人は知恵を求める」と評した。ある訳に、この知恵を「知的な万能薬」と訳した聖書があった。つまりギリシャ人は問題解決、これは今日おパレスチナ問題の解決や、あらゆる人間が抱える問題解決を含む「問題解決の処方箋」を求めたと推理することが出来よう。

その問いかけに、イエスは「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一粒のままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます」(ヨハネ12:24)と答えられた。これがイエスの示された解決であった。

イエス・キリストの十字架の贖いの死が二つの裂かれた傷を癒すのである。対立する両者を和解させるのである。

創世記25:9にアブラハムの死に際し、「彼の子ら、イサクとイシュマエルは、彼をマクペラのほら穴に葬った。」と記されている。父の葬儀を二人の息子たちが執り行っている姿から、兄弟のいさかいより和解の姿が見えて来る。

二人の息子は各々の痛みの経験を通して、父の死の悲しみを分け合うことで和解しているのである。聖書をよく読むと、その後この二人の兄弟の子孫は歴史の中で交差し、助け合っている記事が記されている。

ヨセフが兄弟たちのねたみから空井戸に投げ込まれた時、イシュマエル人のキャラバンが通りかかりヨセフをエジプトに連れて行った。とある。つまりイシュマエルの子孫により、イサクの子孫であるヨセフは命を助けられ、そのヨセフにより一族全部がエジプトで生き残るきっかけが作られた訳である。

そして、このイシュマエルにはもう一つ、今日の我々が直面している、自殺、いじめ、ひきこもりといった諸問題への切り口が一つある。数年前、僕は聖契キリスト教団の赤城山キャンプに参加した。そのときの講師は高名な精神科医の平山正実師であった。師が講演の中で聖書の人物を引用されるところで、「私にとって参考になる人物は立派な信仰の人、あるいは成功者よりも、聖書の中の失敗した人、敗けた人、弱さに悩む人物たちです。」と言われた。現実の問題に打ちひしがれ、ひきこもったり、精神を患ったりしている人々には、立派な信仰の聖人や英雄は役に立たず、むしろ失敗者や追放された人々への神の処方箋の方が助けになる。との言葉に僕は共感した。

お休み時間に平山先生に、僕のイシュマエルについての持論をお話したところ、まるで水を得た魚のように、お互いに肝胆合照らし、平山先生も僕の意見に呼応して下さり、その会話で時を忘れてしまい先生のお休み時間をすっかり奪ってしまた事があった。それで僕はこのイシュマエルに関する持論に大きな手応えを感じたのである。

平山先生は心の病に取り組んでおられ、それに関しての著書も数多く出版されておられる。少し前、新聞にも書かれた「自死」に関する先生の記事を読んで大いに共鳴させられた。僕も9歳の幼少期に母を病気で失くし、22才のとき、祖母を自死で失った。僕がイシュマエルのことに気付きが与えられたのも、この若い時に経験した、悲しみ、心の痛みの痛切さを身にしみて覚えたことが、あるいは下地になっているかもしれない。イシュマエルの名前の中にすでに神の答えがある。

「神はわたしたちの心の叫び、声なき声、痛みや悲しみを聞いてくださる」のである。

(完)                       臼井 勲

イシュマエル(3)

【イサクとイシュマエルをどう理解するか】

先回においてイシュマエルという名が欧米で忌避されている理由を探ってみた。欧米のキリスト教成立の歴史とイスラム世界との対立事情がイシュマエルを解釈するうえに投影されているのではないかというのが僕の推論であった。

それは聖書が本来伝えようとするメッセージを歪めているのではないかという疑問が湧いて来たのである。むしろその歴史過程の外にある私たち日本人の日本人的心情やセンスによって、このイシュマエルとイサクの関係を読み解く方が聖書本来の主張に肉迫できるのではないかと言うのが僕の思いである。

欧米の神学を極めた方々から見れば、僕などの素人の意見など片腹痛いという感じであろう。しかし僕なりに言わせて頂ければ、日本のキリスト教の牧師、聖書学者はバルトやブルンナーについては詳しくても、日本の文化や歴史、日本人の心底に流れる感受性や心理、その納得の仕方について、どれほどの研鑽を積んで来ただろうか。

「福音の土着」ということが叫ばれて久しい。イエス・キリストの福音が理知的に受け入れるだけでなく、心の深い琴線に触れて、心から納得し、悟るものでなければらないと思う。

【北森神学からイサクの意味するものを探る】

幸いにも僕は日本が世界に誇ることが出来る、独自の神学をうち立てた北森嘉蔵博士の神学に、若い時触れることができた。早稲田大学の4年生の時、大学の文化祭の特別企画で北森嘉蔵と亀井勝一郎両氏のジョイント講演「宗教と文学」を大隈講堂で聴いた。北森博士の肉声に接したことは、僕の人生で実に幸運であった。その時の話しはピリピ2:6-11からのもので、若い僕の心に福音の神髄が心底にしみわたるのを覚えた。以来、北森師の著書に親しんで来た。特に「神の痛みの神学」「日本の心とキリスト教」「自乗された神」などを精読した。中でも「旧約聖書物語」は神の痛みを根底にして、アブラハムとイサクのモリヤの山の体験を、イエス・キリストの十字架のあがないが、神の義と愛の交差し、成就する場として、日本人の心情からも深く納得を迫るものであった。

その本の中で最も僕を感動させた所は申命記22:6-7の神の命令「たまたまあなたが道で、木の上、または地面に鳥の巣を見つけ、それにひなか卵がはいっていて、母鳥がひなまたは卵を抱いているなら、その母鳥を子といっしょに取ってはならない。必ず母鳥を去らせて子を取らなければならない。それはあなたがしあわせになり、長く生きるためである。」を北森師は引用され、主はこれほどまでに母鳥の心情を大切にされている。親の心の痛みに配慮されている。この聖書箇所は、神が痛みに敏感な感受性豊かな方であることを、われわれに示しておられる所だと師は指摘されている。この聖書箇所を発見された北森博士のセンスにも深い感動を覚えた。そんな小鳥の心にも配慮される神が、最も忌み嫌われたのがカナンの地方で専ら行われていた、モレク神へ、自分の子を供儀する礼拝であった。「またあなたの子どもをひとりでも、火の中を通らせて、モレクにささげてはならない。あなたの神の御名を汚してはならない。わたしは主である。」(レビ記18:21)と厳しく禁止しておられる。

この二つの聖句は、いずれも神の愛とあわれみ、それゆえの痛みを深く覚える心情を表わしている。その神が人間の罪を解決されるためには、御自分が最も忌み嫌われる異教の方法を採用されねばならなかった。それがモリヤの山で、アブラハムがイサクをささげる行為であった。それはゴルゴタの十字架にご自分のひとり子をささげられる行為に通底する。

その神の痛みを私たちに感じさせる実例の物語を北森師は提示されている。

それは士師記11章のエフタの物語である。遊女の子であったエフタは期せずして、イスラエルの指導者に選ばれた。彼は強力な敵、アモン人との戦いを課せられる。エフタは戦いの前に、主に誓願を立てる。「もしあなたがアモン人に勝たせてくださるなら、私が戦いから無事帰還したとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来る、その者を主のものといたします。私はその者を全焼のいけにえとしてささげます。」と約束してしまうのである。やがてエフタは勝利の帰還をはたして、自分の家に帰ると、なんと自分のひとり娘がタンバリンを鳴らして踊りながら迎えに出て来たのである。エフタは彼女を見るや、「あぁ娘よ。あなたはほんとうに、私を打ちのめした。」と言い、自分の着物を引き裂いた。エフタにとって思ってもいない悲劇であった。しかし神と約束した勝利のいけにえは果たさねばならなかった。ここにも神が忌み嫌われるはずの人身御供が表わされる。

北森師はこう解説される。一人娘を見て打ちのめされた父エフタの心は主なる神の心そのものである。神は人類を敵サタンの支配から解放するため、自ら誓願を立て給うた。しかし、はからずもそれは、御自分の独り子を犠牲として献げることに他ならなかった。そこに父なる神の痛み、深い悲しみがある。北森師は、このテーマは日本人なら最も理解できることとして、日本の伝統的文化である歌舞伎の演目「菅原伝授手習鑑」の中の「寺子屋」の段を挙げている。菅家の家来松王は、一人息子を菅原道真寺子屋で学ばせている。道真は謀られて謀反人にされてしまう。彼の一人息子菅秀才を捕らえて、殺して首を差し出せとの命が下される。松王は主人への義理(忠義)から、自分のひとり息子をその身代わりとして差し出す物語である。主人の息子、実はわが子の首に対面する「首実験」の場において、松王が妻に言うセリフ「女房喜べ。せがれがお役に立ったわやい!」しかし、つぶやく「せまじきものは宮仕え」と。

このことばは日本人であれば、義理の上での忠義の行為も、情においては忍び難い、心の痛みを、観る者も感応して涕泪(なみだ)をしぼる場面である。

アブラハムがモリヤの山でイサクを献げる心の痛み、神がひとり子をゴルゴタで献げた痛みを日本人は理解できる。

アザゼルのやぎとは誰か】

さて僕の本論に戻すと、このようにアブラハムとイサクの物語は、イエス・キリストの十字架の型として、古来から引用されて来た。ではアブラハムとイシュマエルはどうであろうか。ここで僕は最初の稿で指摘した、イシュマエルとイサクの物語の同等性と並列性に目を向けたい。北森師の影響を受けてレビ記を読み進むうちに、この創世記の記事と呼応すると思われた箇所にぶつかった。それはレビ記16:7-10である。

「アロンは、二頭のやぎを取り、それを主の前、会見の天幕の入口に立たせる。アロンは二頭のやぎのためにくじを引き、一つのくじは主のため、一つのくじはアザゼルのためとする。アロンは主のくじに当たったやぎをささげて、それを罪のためのいけにえとする。アザゼルのためのくじが当たったやぎは、主の前に生きたままで立たせておかなければならない。これは、それによって贖いをするために、アザゼルとして荒野に放つためである。」さらに、21-22節に「アロンは生きているやぎの頭に両手を置き、イスラエル人のすべての咎と、すべてのそむきを、どんな罪であってもこれを全部それの上に告白し、これらをやぎの頭の上に置き、係りの者の手でこれを荒野に放つ。そのやぎは、彼のすべての咎をその上に負って、不毛の地へ行く。彼はそのやぎを荒野に放つ。」

このアザアゼルのやぎは正にイシュマエルの姿ではないか。彼自身には何の咎もないのだ。主に女主人サラの利己的保身の動機、アブラハムの気弱さ、またねたみや虚栄心、ライバル意識、いつわりやあらゆる不合理や理不尽さ。つまりアブラハムとサラの不信仰故の罪の重荷を、少年イシュマエルの肩に負わせ、わずかばかりの食料と、皮袋いっぱいの水を与えられ、当然、疲労と渇きと飢えで荒野で早晩死を運命付けられているアザゼルの荒野に放逐されたのである。そしてその姿はイエス・キリストの姿でもある。あらゆる人類の醜い、汚れた罪咎が、ゲツセマネの祈りの時、イエスに負いかぶせられたとき、「父よ。どうかこのにがき盃をわたしから取り去ってください。しかしわたしの思いではなく御心のとおりにしてください。」とイエスは血の汗をひたたらして祈られたではないか。

またゴルゴタの十字架の上で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが父よ。何故わたしを捨てられたのですか)」と悲痛に叫ばれたのではないか。人類の罪、わたしの罪がイエスの頭上に置かれた時、神は一とき我が子を見捨てられた。その悲しみの故に天地は暗くなったと記されている。その悲痛さの故に、エフタが自分の衣を裂いたように、あの神殿の分厚い至聖所の幕が上から下まで真二つに裂けたのである。そしてその裂け目から私たちは、はばからずして、神の聖所に入ることができたのである。

(4)に続く

 

イシュマエル(2)

【欧米人になぜイシュマエルの名がないのか?】

キリスト教がヨーロッパ、ロシア、アメリカに拡がっていき、欧米の人々は、生まれた子どもに聖書の中の人物からその名を引用して命名した。そして男性に限ってではあるが、好まれる名前のベスト10を挙げると

1、デイビッド(ダビデ)2、スティーブン(ステパノ)3、ポール(パウロ)4、マーク(マルコ)5、アダム 6、ロバート 7、リチャード 8、マイケル(ミカエル) 9、クリストファー 10,フィリップ(ピリポ)

だそうである。これを見ても、いかに聖書の人名が多いかがわかる。その他にもアブラハム、イサク、ヤコブ、ペテロ、ヨハネ等枚挙にいとまがない。しかしイシュマエルの名だけはない。皆無ということはなかろうと思い、以前から親しい何人かの米国宣教師に聞いてみた。「知人、友人にイシュメール(イシュマエルの英語)の名はあるか。あるいは生まれた子どもに、この名を付ける可能性はあるか」などの質問をしたところ、答えは「ノー」であった。「おそらく欧米人では決してこの名を子孫には付けないだろう」ということであった。なぜこれほど、この名前が嫌われ、避けられるのであろうか。

誰でも自分の子には好感のもてる名、評判の良い、縁起の良い名を付けるのが人情であろう。反面、そのイメージに反する名前は忌避されることになる。

少し前、日本でも自分の子に「悪魔」と命名して物議をかもした事件があった。結局、市役所が子どもの将来の為によからずと受理しなかった。

イシュマエルは物語の状況から、追放された者、のけ者、宿無し等のイメージを涌かせるためか、あるいは聖書の「彼は野生のろばのような人になる。彼があらゆる人にこぶしを振りかざすので、人々は皆、彼にこぶしを振るう。彼は兄弟すべてに敵対して暮す。」(創世記16:12)の預言が与えるイメージのためか。でもこれは読み方によっては、とても独立独歩の男らしい姿にも映る。

とにかく欧米ではイシュマエルの名はタブーであるようだ。しかし欧米を離れて中東のイスラム教圏では、この名前は名誉ある人気のある名前となる。「イスマエル・・・・」の名は、エジプト、パレスチナイラクなどのアラブ世界で、トルコやイラン、インドネシアなどのイスラム教世界ではよく目にする名前である。まるで「イシュマエル」の名は二つの世界で寸断されているように映る。そしてこの名の発祥であるユダヤ人の名にも、古い時代にはイシュマエルの名の人物が見られるが、ある時代からはなくなる。その分水嶺となる歴史的事件は7世紀に始まるモハメッドによるイスラム教世界の出現であろう。そして11-13世紀に亘る十字軍の聖地争奪戦争の中で、この二つの世界、キリスト教世界とイスラム教世界の対立、亀裂状態は決定的になったのではないだろうか。「イシュマエル」は同じ一神教の祖、アブラハムの長子としてイスラム世界の象徴となり、先祖となった。

そして「イサク」は同じアブラハムの正統の子孫としてユダヤキリスト教世界の象徴となり先祖となった。そしてイシュマエルの名は、ユダヤキリスト教世界から切り離された。

※この後、小説『白鯨』の主人公で語り手でもある名前を「イシュメール」としていた事についての説明がありましたがそれは省略します。

今でこそ傑作とされるこの文学作品は、当時は清教徒的世論の批判を浴びて、メルビルの作品は売れなくなり、作家生活は立ち行かなくなって没落してみじめな生涯を彼は終えることになった。今は亡き清水 氾先生(奈良女子大教授で英語学者)の解釈によれば、この白鯨は、メルビル自身も影響を受けていたかもしれない当時流行の理神論の神の象徴であると言う。この神は創造主ではあるが、人間の運命には無関心であると説かれていた。その神に立ち向かったエイハブ(アハブ)そして生き残ったイシュメール(イシュマエル)。その名前こそが当時の清教徒たちの心理を逆なでしたものだったかもしれない。たった一人欧米人の中で、小説の中とは言え、その名が付けられたイシュマエル。これでさえタブーを犯すものとして嫌悪されたとなれば、今日尚、欧米の神学の影響の中にある日本の学者や牧師たちが、この名にびびるのは無理もない。

しかしぼくは思う。これは後世の歴史の出来事、十字軍の運動などはヨーロッパに大きな影響を与えた。これによってヨーロッパに入って来たイスラム文明。この中には古代ギリシャやローマの文化や文明が高度に保存されており、これをもとにヨーロッパのルネッサンスが起こったとされている。

しかし十字軍の動機や原因は聖地を解放するというのは口実で、実際はイスラム諸国の富と物への貪欲さであり、しばしばイスラムへの刃は近隣の弱いユダヤ人に向けられ、彼らを虐殺し、金品を強奪した。この十字軍運動が決して正しい信仰的動機や正しいイエス・キリストの福音理解に基づくものではない。これによってもたらされたキリスト教イスラム教との敵意とか偏見が歴史を遡行して原典の聖書解釈に影響するとしたら、それは果たして正しいことだろうか。

未だに米国のキリスト教会の一部が堂々と、キリストの福音伝道にクルセード(十字軍)と言う用語を使用するのは理解できないことだ。これは一種の歴史的音痴か、自分たちだけがいつも正義であるというパリサイ的傲慢さかのどちらかであろう。

むしろそんな十字軍やユダヤ人迫害の歴史的体験や伝統のない、私たち日本人がふつうの日本人的感性によって、じかに原典の聖書を先入観や偏見なしに、白紙のままの心で読んだときの感動や印象の方が、より神が言わんとしておられる真髄を汲み取ることが可能なのではないだろうか。(3)に続く