ナルドの香油

あなたは私の隠れ場(詩篇32:7)

境界線(バウンダリー)とは何か⑥

【境界線をを用いて守るべきもの 】

境界線というのは、地境の設定でもあります。

この地境の中に、「あなたの宝」を置き、守るのです。

「あなたの価値観」を守るのです。

あなたが高い価値を置き守りたいものとは何ですか? 

聖書的真実、祈り、献身、神の栄光・・・。

そうです。

そのために生きて死ぬもの。

そのような「価値観」を境界線で守るのです。 

信仰、愛、正直さ、責任・・・そのような価値観を捨てろと言われたら、いいですか、断固として「ノー!」と言うべきです。 

子どもにも境界線の設定を教える必要があります。

『子どものための境界線』という本を書きました。子どもに、岩(イエス・キリスト)のような価値観を教える親でありたい、あってほしいと思います。 

箴言4章23節には、

「力の限り見張って、あなたの心を見守れ(NIV)」とあります。

支配的な人に心を傷つけさせないで、あなたはあなたの心を守る必要があります。 

【境界線を引き、守るものの基本を二つ挙げましょう。」 

①「心を守る」

自分の幸せ(気分)に責任があるのは、自分。だから不機嫌な人のご機嫌取りはしてはいけない。その人の幸せ(気分)の責任はその人にあるのです。 

②「時間を守る」

聖書は「永遠と比べたら陰のようなもの」と私たちのことを述べています。

人生を浪費するために人に時間を与えてはなりません。

神はあなたの人生に目的を持っておられる。この目的を達成できず終わることにならないためです。

境界線の問題の判別】 

境界線に関して、次のような問題が見受けられます。

マタイ7章にあるように、良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶのです。 

①「臨床的問題」

鬱、ドラッグやアルコール中毒、性的依存症、バニック障害、不安症、摂食障害、コントロールできない怒り等。

多くの場合、これらの根っこに境界線の問題が見られます。しかし、医学的問題も関与する分野ですので、相互関係についてはドクター・オカモトが後で説明します。 

②「人間関係の問題」

カリフォルニアで診療していると、「ノー」と言えずにすべてを引き受け、燃え尽きてしまった働き人が数多く訪れます。

素晴らしい賜物を与えられた人々が、境界線を引けず、「ノー」を言えないままでやってきた結果、燃え尽きるのです。 

③「秩序の問題」

なぜか物事を最後までやり遂げられない人。浪費癖のある人。また家の中が散らかりっぱなしで、片付けられない人。このような方は、明らかに境界線の問題があるということです。 

あらゆることの成功は、いくつかの境界線をきちんと引いていけるかによって量ることができます。

自分に問題点を見出した人は、自分の境界線をしっかりチェックしてみてください。 

健全な境界線を引く(持つ)ことによって、皆さんの中に、神、愛、自由、変化を見ることができる、それが私の何よりの希望です。

 

                                     ジョン・タウンゼント

境界線(バウンダリー)とは何か⑤

境界線の例 
境界線の最も明確な例は「皮膚」です。皮膚はあなたを定義し、あなたを守ります。
隣りに座っている人を見て「あなたは皮膚を持っています」と言うことができますよね。
皮膚があることによって、あなたがどういう外見を持っているのか、それを言葉で言うことができます。
また皮膚は、あなたを守ります。
悪いものを外に止め、良い物を内側に取り入れることができます。
皮膚のない人生って考えられますか?
 
道を歩いていると肝臓が落ちてくる、肺が落ちてくる、それを後ろの人が拾って歩く・・・ということになりますね。
境界線のない人生というのは、まさしくそういう人生なのです。
 
あなたの感情が外に飛び出し、思いが外に飛び出し、そして誰かがそれを掃除して歩く・・・そういう感じなのです。
 
また「言葉」も境界線です。
あなたの心の真実を語るとき、境界線を引いていることになります。
誰かに「あなたの言葉が冷たくて私は傷つきました」と言うとき、あなたは境界線を引いていることになるのです。
 
さらに「距離」と「空間」も境界線です。
私たちは人間関係において、ある程度の距離と空間を置く必要があります。
時にはこう言わなければなりません。
「あなたは私にとって安全な存在ではないので、私はしばらくあなたと距離を保たなければなりません」
境界線は、私たちの人間関係を終わらせるものではなく、それを立てあげるものなのです。 
 
「人々」も境界線となります。
もし誰かがとても弱い状態にあって自分で境界線を保てないとき、誰かがその人に代わって境界線を守ってあげることができます。
例えば教会で問題を起こす人に対しては、長老たちがその人のところに行って
「私たちはあなたを訓練しなければならない」と言う必要があるでしょう。
マタイ18章15節-17節がその原則です。
教会が、弱い人の境界線を守る役割をするわけです。
 
私たちがスモールグループの役割を重視するのはそのためです。
スモールグループとは、弱い状態にある人を助けることができるからです。
ヘンリー・クラウドと私は「スモールグループから始めよう!」(地引網出版)という本を書きました。私たちは、お互いを守るためにお互いを必要とするのです。
 
「時間」も境界線です。
時には、問題を持ってくる人との間に時間をおくことによって、問題の解決につながることがあります。よく、非常に怒りっぽい人が周囲にいて怒り出した場合、
「ああすみません。もう怒らないでください」と、その人が怒らないようになだめてしまうことがあります。
しかし箴言19章19節には「激しく憤る者は罰を受ける。たとい彼を救い出しても、ただ、これを繰り返さなければならない」とあります。
ですから、もし怒っている人がいるならば、こう言わなければなりません。
「わたしはあなたから時間をおかなければなりません。なぜなら、あなたは私を傷つけるからです。もしもう一度、癇癪を起すなら私は妹の家に行きます」
こうすることで相手は、自分の怒りが人を傷つけているという事実を知ることになります。 
このように、良い境界線を築くために用いることができるいくつかの道具があるのです。(つづく)
                         ジョン・タウンゼント

境界線(バウンダリー)とは何か④

質疑応答 
Q1 山上の説教で
「一ミリオン行けと強いるような者とは、一緒に二ミリオン行きなさい」と言われていますが、その場合の境界線の位置づけはどのようにすればいいですか?
 
A)大変良い質問ですね。
第一に、聖書が言うように行ってください。
第二に、一つの聖書の言葉だけで神学を作り上げてはいけません。
現在、一つの聖句だけで神学を作り上げてしまう人が大勢います。
それを「カルト」と言います。
 
使徒の働き17章に出て来るベレヤの人々は、非常に熱心に御言葉を聞き、その通りかどうか聖書を開いて調べていました。
 
もし誰かが、あなたの聖書の一箇所だけを開いて何かを言うなら、聖書全体を調べてみて下さい。
聖書は聖書から解釈すべきなのです。
 
では、先程の御言葉を見てみましょう。
 
「一ミリオン行けと強いるような者とは、一緒に二ミリオン行きなさい」
それをして下さい。
 
しかし、Ⅱテサロニケ3章10節には「働きたくない者は食べるな」と書かれています。
どうしたらいいですか?
働かない人のために行ってあげるべきですか?
いいえ。その人は、働くまで食べてはならないのです。
 
つまり、相手によって対応を変える必要があるのです。
 
例えば、もし私たちの姉妹が傷ついていたり、経済的な必要があったり、あるいは離婚を通り抜けようとしている場合、私たちは二マイルでも三マイルでも一緒に行ってあげるべきです。傷ついた弱い人のために、それをしてあげるべきです。
 
しかし兄弟が怠け者で、神の恵みを拒絶しており、自己中心で無責任なら、その場合は「NO」と言うべきです。
「恵み」は怠け癖を助長するために使うべきではありません。
その人が成長するために用いるべきなのです。
 
また私は、恵みがいつも先立つべきだと思っています。
もし誰かがお金を貸して欲しい、時間を下さい、車を貸して、と言ってくるとき、
クリスチャンとしては「はい」と言うべきでしょう。
それが恵みだからです。
もちろん、それによって私たちの生活が破壊されてはなりませんが、
私たちに与えるものがある限り、与えるべきだと思います。
 
その後、あなたが恵みを与えた相手がそれをどのように用いるかによって、その人の人格を知ることができます。
あなたが余分に歩いてあげたことによって相手が感謝し、独り立ちできるようになるならば、あなたは良いことをしたのです。
 
しかし、「もっと、もっと」と要求してくる人もいます。
箴言30章15節には「蛭には二人の娘がいて、『くれろ、くれろ。』と言う」と書いてあります。
あなたは愛のある人に与えていますか?
それとも蛭のような人に与えていますか?
私たちは、私たちが与えることによって生じる実に対しても責任があるのです。
エスさまは豚に真珠を与えてはいけないと言われました。
 
Q2 境界線と共依存には何か関係があるのですか? 
A) みなさん、「共依存」という言葉を聞いたことがありますか?
共依存とは責任の神学における問題です。
他の人が本来責任を持たなければならない問題に対して、あなたが責任を持ってしまうことです。
 
自分の問題を放っておいて他の人の問題ばかり取り扱おうとする人の状態です。
そのような人は、自分は愛に満ちていると思い込んでいます。
確かに彼らの心はその通りなんですが、その結果として生まれる実は、
相手が怠け者である場合、「ますます怠け者になる」という実なのです。
 
共依存とは、他者を愛することと、他者を助け出してしまうこととの区別が出来ていない状態と言えます。
 
愛するとは、相手を支えること、傍にいてあげることですが、その人が果たすべき責任まで引き受けてしまうことではありません。
 
一方、「助け出してしまう」とは、相手が行った行為の結果として生じる痛みを取り除いてしまうのです。
 
境界線とは、共依存を癒すために存在します。
境界線を引くというのは、
私はあなたを愛します、しかしあなたの責任を代わりに引き受けることはいたしません、という関係を生み出します。
 
神学的に言うならば、共依存は神の働きを邪魔してしまうことになります。
神はご自分の子ども達を しつけたいと思っておられます。
神は愛に満ちた父親です。
ヘブル人への手紙12章10節には、
「霊の父は、私たちの益のため、私たちを御自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです」と書かれてあります。
ところが共依存は、神さまが行おうとしている しつけ のプロセスを邪魔してしまうのです。(つづく)
 
                          ジョン・タウンゼント

境界線(バウンダリー)とは何か③

境界線の機能
 
境界線(バウンダリー)には二つの機能があります。
一つは自分がどういう人間であるかを明確に「定義」するという機能。
 
神はご自身を明確に定義しておられます。
神は公正を愛し、憐れみを愛し、義を愛します。
一方、神は罪、プライド、不公正などを憎みます。
神は愛し、憎むのです。
そして神は、私たち人間にも同じようであってほしいと願っておられます。
神が愛するものを愛し、神が憎むものを憎んでほしいのです。
 
好きなものについて語ることは簡単です。
私は寿司が好きです(笑)
しかし、嫌いなものについて語るのは、相手に申し訳ないと感じてしまい、難しいのです。
しかし、皆さんが自分の嫌いなものをはっきりさせなければ、他者から見て明確な人とはなり得ません。
しっかりと定義されているということは、あなたが何を愛し、何を憎んでいるかが明確であるということです。
 
今朝、それが私に起こりました。この会場に向かうために、通訳の佐知さんとオカモト博士と3人で歩いていました。とても寒かったのですが、佐知さんはコートを持っておらず、ブルブルと震えていました。
しかし私はコートを二つ持っていました。
そして私が、彼女に「コートが必要ですか?」と尋ねたら、「イエス!」と言って即座に持っていきました。
そして私が「あなたは私にそのコートを貸してくださいと尋ねるつもりはありましたか?」といじわるな質問をしました。
彼女は「たぶんね」と言いました。
 
私たちは自分に必要があっても、その必要を言ったら相手をわずらわせてしまうのではないかと思い、それを言わないでいることがよくあります。
神さまは、私たちが他者の必要に対してケアできると同時に、
自分の必要も明確にできる人間になってほしいのです。
そうでないとあなたは凍え死んでしまうかもしれません。
 
ダビデ詩篇101編で、自分が我慢しないことについて述べています。
3節「私の目の前に卑しいことを置きません」、
5節「影で自分の隣人をそしる者を、私は滅ぼします」、
7節「欺く者は、私の家の中には住みえず」
などですね。
彼は自分がどういう人間であるかを明確にしています。
 
境界線(バウンダリー)のもう一つの素晴らしい機能には「守り」があります。
 
どんなに親しい関係であっても、私たちには守りが必要です。
夫婦の間でも、教会の間でも、お互いに傷付け合うことがあるからです。
 
箴言4章23節には「力の限り見張って、あなたの心を見守れ」と書いてあります。
英訳聖書には「何よりもまず(Above all)」という言葉が書かれてあります。
まず、あなたの心を見守る必要があるのです。
 
時には、相手に対して
「あなたは私の感情を傷つけるので、私はあなたの間に距離を置かなければなりません。」と言わなければならないことがあります。
自分にとって良くないことが起こったとき、それに抵抗して立ち上がらなけれなならないことがあるのです。
 
アルコールや薬物の問題を持つ人、無責任で子どもっぽい人、非常に怒りっぽい人などが、あなたの感情を傷つけているかもしれません。
境界線を引くことで、そういう人との間に距離をとることができます。
 
これは私たちを愛の欠けた人間にするのではありません。
むしろ、愛と信仰と自由と変化のためであり、さらに愛のある人間へと導くことになるのです。(つづく)
 
                       ジョン・タウンゼント
 

境界線(バウンダリー)とは何か②

では次に、境界線(バウンダリー)という言葉の定義をはっきりさせましょう。
 
「境界線」と聞いて、愛や自由を思い浮かべる人は少ないのではないでしょうか。
 
通常、限界、壁、分離などを思い浮かべます。
 
しかし境界線という言葉は、自分の責任範囲「地境」と理解していただくのが適切です。
 
日本にネズミはいますか?あなたの家にネズミが入ってきたら誰の問題ですか。
それはあなたの問題です。あなたの家、あなたの責任、あなたのネズミです(笑)
隣人が私の家からネズミを取り除いてくれますか?
そうではありません。私の責任です。私が対処しなければなりません。
しかし、そのネズミが隣人の家に行ってしまえばどうでしょうか。
隣人の問題です。
これが地境です。
 
私は隣人を愛していますし、良い関係を持っていますが、
彼のネズミは彼の問題です。
私は隣人に”対して”責任を負いますが、隣人に”関して”責任は負わないのです。
 
多くのクリスチャンはそのことが分かっていません。
クリスチャンは世界の全てのことについて責任を感じてしまいます。
 
小さな鳥が北極で死ぬと、私の責任だと思ってしまうのです。そこであちこちに飛んでいって、様々な人の問題を解決しようとします。
しかし、そうしている間に自分の家の中のネズミはどうなるでしょうか。
 
まず、私の内側に問題があるのです。
アメリカにこういうことわざがあります。
「靴屋の子どもは靴を持っていない」
 
神さまは、あなたの人生をあなたへの贈り物として、あなたが管理するものとして与えて下さいました。
 
マタイ25章にあるタラントの喩えを読めばよく分かると思います。
一人は5タラントをもらい、それを投資して5タラント儲けました。
2タラントの人は2タラント儲けました。
しかし1タラントもらった僕はそれを地に隠しました。
主人はそれを怒りましたね。
 
あなたにもタラントが与えられています。
それはあなたが管理して増やして、他の人にも与えていくためです。
これは自己中心ではないのです。
管理責任の問題です。
 
私たちが自分に与えられているものを充実させることなしに、外に出て行ってばかりでは、やがて私たちの内側はからっぽになり、神さまから頂いた賜物を生かすことができなくなるのです。
 
第2コリント5:10節には、神の前に出て申し開きをしなければならないと書いています。神に対して説明責任があるのです。
ですから、私たちが自分の人生の面倒を見ないでいるのなら、神さまはそれを喜ばれません。
自分の人生に地境を持つというのは良いことなのです。
それによって自分の心の面倒を見て、人生の面倒を見て、時間を管理して、自分自身を管理するのです。(つづく)
 
                       ジョン・タウンゼント

境界線(バウンダリー)とは何か①

以前、境界線(バウンダリーズ)の本を読んだ時は自分に必要な事が沢山書かれていて、大事な箇所に線を引いたり、すぐに開けるように角を折ったり、とても人に貸せるような状態ではないけれど、必要な人には貸し出しています。
2005年に著者の一人ジョン・タウンゼント氏が来日され、境界線(バウンダリーズ)についての内容を紹介された記事が「リバイバル新聞」に掲載されていて、とてもコンパクトによくまとめられていた為、ずっと新聞を保管していました。
①~⑥までを載せたいと思います。以下、その記事より・・・
 
まずはじめに、エペソ人への手紙4:15-16節を開きましょう。 
ここに
「むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。
キリストによってからだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです」と書かれています。
 
「愛をもって真理を語る」というのは決して容易なことではありません。
愛をもって援助をしても、真理を語らないことがあります。
逆に、真理を語るのですが、言い方がきつすぎて愛を感じてもらえないこともあります。
しかし聖書は、神は真理に満ちており、同時に愛に満ちたお方だと言っています。
 
ここで、ある夫婦の話を分かち合いたいと思います。
米国でセミナーを行ったときのことです。
ある男性が『境界線(バウンダリーズ)』を持って来て、「この本は私の結婚を救いました」と言いました。
しかし彼はその本を読んでおらず、奥さんが読んだというのです。
 
彼は「私は妻を愛していますが良い夫ではありませんでした。裏切ることはなかったが、妻は孤独でした。教育や政治、宗教の話しはしても、互いが心から繋がっていなかったのです。」と言いました。
 
彼の妻が『境界線(バウンダリーズ)』を読むまで、彼女は優しく、美しく、子育ても忠実に行なっていたそうです。
そして彼にとって一番都合が良かったのは、彼女が「真実」を語らなかったこと。
 
しかし妻は、この本を読んで自分の感情を表現するようになり、モンスターのようになったそうです。(笑)
 
その後、彼らは互いに正直になり、自分の感情や思いを相手に伝えるようになりました。
 
彼は「もう一度、彼女と恋に落ちました」と言いました。
 
男というのは、相手の話を心から聴くこと、自分の思いを伝えること、相手の痛みに耳を傾けることが苦手です。
 
しかし彼は妻の思いを聴き始めました。そして、自分がいかに自分の人生のことばかり考えて妻の人生を考えてこなかったか、また自分の妻をいかに知らないでいたかが分かったのです。
 
神は私たちを一つの目的のために作りました。
それは「愛」です。
しかし私たちが神を愛し、互いに愛し合うにあたって、真実を語り合うことなしに愛することはできないのです。
 
クリスチャンは愛、恵み、受容などについては良く学んで知っていますが、「正直さ」についてはよく理解していないようです。
 
私はこのセミナーで「責任の神学」について語りたいと思っています。
愛というものは、神に対するものであれ、相手に対するものであれ、責任なしには存在しません。
 
そして第一ヨハネ4:18節には「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します」と書いてあります。
 
私たちは、イエスの支払って下さった代価により、恵みによって恐れることなく真実を語り合うことができるようになりました。
 
しかし、頭で分かっているのと、実際の人間関係で体験することとは異なります。
私たちは拒絶されることを恐れて、真実を語りません。
人は確かに真理を聞いて怒ることもあります。
しかし、真実を語ることによって何かが変化します。
 
第一に、愛と信頼を得ることができます。
愛というものはあなたが安全に感じ、ありのままでいいと感じているときにしか出てきません。
 
ダビデは神の前に正直でありました。あなたが愛の人になるためには、まず安全を感じなければなりません。
 
第二に、それによってあなたは自由になれるということです。
救われる以前、私たちは囚われの身でした。しかし、私が6つの大陸でセミナーをして分かったのは、どこでもクリスチャンが囚われの身になっていることです。
クリスチャンの自由がないのです。
選択の自由、自分の考えを持つ自由、感情を言い表す自由がありません。
 
第三に、周囲に変化がもたらされます。
あなたが正直になるとき、周囲の人も変化し、結果として益を得ることができます。
自分の周りに真実を語ってくれる人がいることは、とても素晴らしいことなのです。
(つづく)
 
                            ジョン・タウンゼント

リビングにかけてある壁掛けとメッセージ

 

 

木製の壁掛けは 自由学園生活工芸研究所のもの

http://jiyu-craft.typepad.com/

 

額に入れられたメッセージは  an east window  のミヤサカさんブログより 

十字架につけられたキリスト - an east window 

十字架の言 - an east window

 

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