ナルドの香油

あなたは私の隠れ場(詩篇32:7)

嫉妬

「嫉妬」
 
神のいのちの表れである御霊の実と対比して、肉の働きを見ています。
 前回の肉の働きの中に、「そねみ」と「ねたみ」という言葉がありました。
 覚えていますか。
 「そねみ」は、漢字では「嫉み」です。
 「ねたみ」は漢字では「妬み」です。
 似たような言葉ですが、意味はどう違うのでしょうか。
 辞書によれば、「そねみ」とは、人のことをうらやましく思い、自分に劣等感を抱くことだそうです。
 また、「ねたみ」とは、人のことをうらやましく思い、相手に悪意を抱くことだそうです。
 二つの言葉を合わせると、嫉妬(しっと)となります。
 すごいことですね。
 2000年前の聖書の時代の人たちは、どれだけ学歴があったか分かりませんが、これらの言葉の意味と、その違いを知っていたのです。
 その言葉の違いを知っていたということは、人のことを「そねみ」「ねたむ」経験もしており、その経験を特定の言葉で表現していたわけです。
 当時の宗教家たちがイエスを十字架につけようとしていたのは、「ねたみ」のためであったことを、裁判の席にいたローマの総督ピラトには分かっていました。
 
「そねみ」と「ねたみ」
 あなたはこのどちらの経験がありますか。
 わたしはですか。
 どちらかと言えば、「そねみ」の方です。
 
この肉の働きのことをよく知っていたので、パウロイエス・キリストを信じているクリスチャンたちに対して、神のいのちから遠く離れてしまうことを警告しています。
 =========
 エペソ4:17-19
 そこで、わたしは主にあっておごそかに勧める。
 あなたがたは今後、異邦人がむなしい心で歩いているように歩いてはならない。
 彼らの知力は暗くなり、その内なる無知と心の硬化とにより、神のいのちから遠く離れ、
 自ら無感覚になって、ほしいままにあらゆる不潔な行いをして、放縦に身をゆだねている。(口語訳)
 =========
 これは2000前の聖書の時代の人たちだけの問題でしょうか。
 次回に続きます
 
浜崎英一
 

御霊の実の反対

  •  
    「反対から見ると」

    神のいのちを意識することの大切さを学んできました。
    また、反対側からこれを見ることもできます。
    神のいのちではないものは何かということです。
    神のいのちの表れとして、9つの御霊の実について見てきましたね。
    覚えておられますか。
    愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制でした。
    それに対比するかのように、聖書にはその少し前に、「肉の働き」が記されています。
    =========
    ガラテヤ5:19‐21
    肉の働きは明白である。
    すなわち、不品行(姦淫)、汚れ(わいせつ)、好色、偶像礼拝、まじない(魔術)、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽(遊興、酒宴)、および、そのたぐいである。
    わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。
    このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。(口語訳)
    =========
    沢山出てきました。
    日頃の生活の中で、自分の中に、この全部ではなくても、この中のいくつかの肉の思いが起こってくることがありますか。
    わたしはあります。
    いつもではないのですが、何かの時に起こってくる思いがあります。
    ここに挙げられている一つや二つであっても、それは肉の思いですから、神のいのちとは全く違うものです。
    このような思いを心にもった時、ああ、今、わたしの中にある、この思いは肉の思いであって、神のいのちではない、と意識できますか。
    そのように意識しないまま、それを普通のこととしてほっておくこともできます。
    そのいやな思いを意識できれば、対処の仕方も分かりますね。
    十字架です。
    「肉の思いは死であるが、御霊の思いはいのちと平安である。」(ローマ8:6)

    浜崎英一
     
     

いのちを得させる義

 
☆順番が前後してしまいましたが、「身に着けるもの」の一つ前の記事の転載です。
 
 
「神のいのち」シリーズとして、このテーマは昨年12月から3か月余り続いてきました。
マリヤは聖霊によって身重になりました。
この処女降誕が事実であると信じている人たちは
更に信じなければならないことがあります。
 
主イエスを信じている人たちも、
聖霊によって「新しいいのち」をもらっているということです。
 
このことをハッキリするために「神のいのち」について、ずっと学んできました。
 
けれども、あたらしいいのちの人でも、
以前として「古いアダムのいのち」、「肉のいのち」で生きていることもあります。
そのように思ったことはありませんか。
そこが問題ですね。
 
聖書によれば、イエス・キリストを信じる人は
罪を赦され、義とされます。
しかし、義とされるというのは、
ただ罪が赦されたというだけではありません。
 
義とされた、その結果として、「新しいいのち」が与えられています。
その義は、「いのちを得させる義」だからです。
 
それは特別な人だけにではなく、信じるすべての人に及んでいます。
 
 
「もし、ひとりの罪過によって、そのひとりをとおして死が支配するに至ったとすれば、まして、あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている者たちは、ひとりのイエス・キリストをとおし、いのちにあって、
さらに力強く支配するはずではないか。このようなわけで、
ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められたように、
ひとりの義なる行為によって、いのちを得させる義がすべての人に及ぶのである。」(ローマ5:17-18 口語訳)
 
パウロによれば、主イエスを信じて、恵みと義の賜物とを受けている者たちは、
イエス・キリストをとおし、いのちにあって、さらに力強く支配するはずなのです。
アダムの罪によって死が支配するようになった、
それ以上に「いのちによる支配」が始まっています。
 
それは信じる者の内におられるキリストによってであり、
その「キリストのいのち」によってです。
そして、そのいのちとは、
主イエスを信じて、義とされた結果として与えられている「いのち」です。
 
「もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、 
からだは罪のゆえに死んでいても、 
霊は義のゆえに生きているのである。」(ローマ8:10 口語訳)

 

 
このみ言葉を信じられますか。
 
浜崎 英一 聖書のみ言葉の黙想より転載

「身に着けるもの」 

 

自分が無視されたり、傷つけられたりした場合、その人を赦すことは、そう簡単ではありません。

 

身近な人間関係の中で、そういう経験をすることはありませんか。

赦さなければと頭で思っていても、感情的に赦せません。

心が傷付いている場合は、なお更です。

あなたは赦さないといけないよ、と言われても

出来ない自分がいます。

 

「もう赦した、赦した」と声を荒げることもあります。

このような人間関係の難しさを経験したことがありますか。

 

ところが、聖書はただ、赦す赦さないだけを問題にしていません。

それは表面的なことです。

赦すためのいのちが必要です。

いのちの表れが必要です。

それは御霊の実です。

次のみ言葉は黙想するのに、素晴らしいみ言葉です。

 

だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。

互いに忍び合い、もし互いに責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。

主もあなたがたをゆるして下さったのだから、

そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。(コロサイ3:12-13 口語訳)

 

ここにはいくつかの御霊の実が出てきます。

憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容です。

これを身に着けなさい、と言われています。

 

どのように身に着けるのでしょうか。

このみ言葉によれば、まず自分がどのような者であるかを思い出すことです。

 

キリストを信じているあなたは「神に選ばれた者」です。

本当ですか。

み言葉によれば、本当です。

 

あなたは、神の目には、キリストにあって「聖なる者」と見られています。

信じられますか。

 

このみ言葉を信じれますか。

あなたはキリストにあって、「神に愛されている者」です。

こんなわたしがですか。

そうです。

神はあなたに目を留め、

あなたのことを心にかけ、

あなたのことを大切な人と見ておられます。

ですから、まずは、自分がそのような者であることを信じ、受け入れ、

その愛のうちにとどまることです。

 

では、現実はそのようなものではないと思える自分はどうなるのでしょうか。

 

主イエスを信じて救われた人たちは、

現実のどうしようもない、その自分が出てくるたびに、

その肉の自分は十字架に死んでいることを認めなければなりません。

その十字架のことがハッキリしていないと、

聖書の言っていることは現実離れしたきれいごと、理想の教えにしか思えません。

次回に続きます。

 

浜崎 英一  「聖書のみことばの黙想」からの転載

 

 

聖化とは☆


クリスチャンになって12年になりますが、依然として私の中には罪深い性質があり、
キリストに似た者になりたいという聖化の思いがあるのにそれはかないません。
聖霊に導かれるなら、それが可能だと分かってはいますがいつも失敗に終わるのです。その原因と正しい方法が「内なる人の変革」という本に書かれていたので抜粋ですが書き出しておきます。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

もともとの出来事、すなわち現在の行動の背後にある怒りや裁きなどの「罪」と「古い性質」に潜む罪なる習慣との間には、大きな違いがあります。

【個々の罪】には赦しが必要です。(イエスご自身のみが、私たちを赦すことができる)

しかし
【罪の性質】というのは、私たちが十字架において死ぬことによってしか処理できません。(十字架において死ぬということには、私たち自身が参加しなければならない。)

内面の癒しにおいて、多くの人が赦しを求めて祈ることをしていながら、罪の性質を十字架の死につけることができていないのが分かってきました。その一方で、多くの牧師は、日々自分を十字架につけるようにと人々に呼びかけていながら、罪なる習慣が幼少期に形成されることを知らず、内なるこどもが死と再生を体験するためには、どのように祈ればよいのかもほどんど分かっていないということに気が付き始めました。
そのような働きは、まるで農夫が絶えず雑草を刈り込みながらも、根が残っているために、後から後から生えてくるようなものに思えました。
根に斧を入れるところまでしなければならないとは、誰ひとりとして理解していないようでした。根は、表面から見えないところに隠れて存在しているのです。
「個々の罪」と「罪の性質」との両方を取り扱うことによって、初めて肉的な性質の根底にある原因を変革するということを、いやしの働きをする人々も、牧師たちも、知らないようでした。
これこそが教会に大きく欠落している点であり、キリストの身体が真の聖化と変革に欠き、いつまでも成熟できずにいる一つの理由であると、私は知ったのです。

多くの人は、古いものを死に至らしめ、新しいものを据えるかわりに、古い生地につぎ当てをしているだけでした。

キリストを救い主として受け入れさえすれば、万事解決するという見方で、あらゆる罪の行いは完全に洗い清められた、ということは正しく理解していながら、良き知らせであるこの事実が心の全ての領域において完全に適用されていないということを、キリストの身体は認識できていなかったのです。
立場的に見ると、古い人は完全に死に、一切が新しく造られた者が存在している、ということは正しく信じていながら、実際には内なる人の多くの領域が、横たわって死を受け入れるどころか認識されることさえ拒否しているということを、キリストの身体は把握できていなかったのです。
そのためクリスチャンは、「私は生まれかわった。私は完全に変えられた。私は新しく造られた者。一切の過去は消え去った」と声高らかに叫びつつも、その生き方においては逆の証をしているということが多くあり、未信者に向かってイエスの福音を冒涜してしまっていたのです。

心理学者は人々を機能できる状態に回復しようとしますが、クリスチャンは人々を赦し、死と再生に導こうとします。

聖霊は私たちを改善するつもりも、段々良くしていくつもりもないのだ、ということを知らされました。そうではなく、聖霊は私たちを完全に死に至らしめた上で、新しくされるのです。また、内なる人の変革は、私たちがこの地上にいる限り、私たちの肉を完全に改革することではなく、私たちを支配する肉の力を葬り去り、私たちにイエスの義を着せるものであるとも、教えられました。
「しかし、あなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また義と聖めと、贖いとになられました」(Ⅰコリント1:30)

もし天国に辿り着く前に、人が到達することのできる限りの完全な姿となり、自分の人格に自信が持てるようになるほどまで、聖霊によって肉の部分を変革されたなら、その人はやがてイエスに拠り頼むことをやめ、自分の肉に信頼を置くようになるでしょう。全体が一度に完全にされない限り、高慢によって堕落することは避けられません。イエスの継続的な救いに対する感謝の気持ちを失ってしまうでしょう。
ですから、主は私たちをいやされ、信頼と安息を与えられますが、それは私たちを守ることのできる主の力のみによるのであり、自分の人格的な強さや意志の力によって正しいことを行うことによってではないのです。
逆説的ですが、自分の肉には何の信頼も置かないで、ただ主にあって安息することによって、私たちは癒されるのです。主が変わらないお方であるから私たちの変化も永続的であるのであって、主に信頼する能力が新たにされる以外には、自分の中に何か確実なものがつくられたり、変えられたりしたからではないのです。
「神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです」(ピリピ3:3)

心理学ではセルフイメージを修正することで、自分に自信が持てるようにします。

キリストは私たちの肉的な自信を葬り去ることで、私たちに唯一残されたセルフイメージが「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(ピリピ4:13)となるようにされるのです。

セルフイメージとは、私たち自身が建て上げ、誤って頼るようになるものです。セルフイメージは必然的に私たちを、そのイメージを守るため、またほかの人が見て褒めてくれるためという自己中心的な努力に駆り立てます。私たちはそのイメージを守り、築き上げ、建て直さなければならなくなるのです。

しかし、クリスチャンのアイデンティティーは賜物として与えられるものであり、神が私たちの内に建て上げて下さるものなので、人から見られたり、認められたりする必要も、自分の力で守っていく必要もないのです。
クリスチャンのいやしは、壊れたものを何とかもう一度使い物になるように修復するのではなく、その壊れたものによって支配されることから私たちを解放し、壊れたものは壊れたままで、その中に、またそれを通して主の義が輝くのだということに信頼できるようにするのです。

「あなたにすべての栄光を帰すように気をつけます」などとわざわざ言わなくても、自分がすでに罪の中に死んでいるということを充分に理解すれば、当然すべての栄光は主のものとなるのです。私たちは何一つ、良いことなどしません。神がすべてを成し遂げて下さるのです。

神は神に頼ることなくして私たちが自分の力で築き上げたものは壊されるかもしれませんが、人格を建て上げようとするその努力自体を止めようとはされません。むしろやってみなさいと言われます。
早い段階に一生懸命やってみればみるほど、自分には救い主が必要だということに、私たちが早く気が付くということを、神はご存知なのです。
自分の力で築き上げたものが熟し、悪臭を発するようになれば、その実と自分自身が死に、木や草、刈り株でできたものは火の中で燃やされ、その過程で知恵が与えられ、神によって新たに石や銀や金によって建て直されるのです。(Ⅰコリント3:11-15)

良いものも悪いものも、私たちの中に築き上げられた性格はすべてキリストにあって死に、再形成されなければなりません。
【聖化】とは(私が以前考えていたように)堕落した習慣を一つ一つ取り除き、やがてはその人の性質全体が美しく輝くようになる過程を意味するのではありません。
自分自身が完全な姿に造られているどころか、実は完全に堕落しているのだということを知り、イエスにあってそのことを安心して受け入れられるようになることなのです。
パウロミニストリーが終わりに近づき、その身につけている手ぬぐいをはずして病人に当てると病人が回復した頃(使徒行伝19:12)、彼はこのように記しました。
「キリストイエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。(Ⅰテモテ1:15)
以前は罪人であったが、今は罪のない聖人になった、とは書かれていません。
そうではなく、パウロは成熟することによって、今も自分に罪があることをますますはっきりと知るようになり、自分が罪人のかしらであると分かったのです。

「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたちという願いがつつもあるのに、それを実行することがないからです。」(ローマ7:18)
神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(Ⅱコリント5:21)
私たちがこのように、自分が完全に堕落した存在であることを悟るとき、私たちの砕かれた心を通して主の御性質が輝き、その栄光を現すのです。

エスの十字架によって完全な死の状態から、主にあって新しく造られた者として甦らせてくださるのです。それでもまだ危険性が残ります。それは、イエスという光輝く新しい塗装の下に錆のように存在する自己の堕落した性質が、私たちが主に背を向けるやいなや、再び、自己主張しようと待ち構えていることを忘れてしまう危険性です。
私たちは結局のところ、自分がそこそこの良い人間であると思いたいのです。
「確かに悪いことも多少はしてきた。しかし、その代価はイエスによって支払われたのだから、これからは神によって本来造られたいい人になれる」と考えているのです。
けれども皆さん、そうではありません。表面の皮を剥がしたら中から良いものが出て来るのではなく、全体が堕落しているのです。ですからしなくてはならないことは、「古い人をその行いと一緒に脱ぎ捨てて、新しい人を着る」(コロサイ3)ことです。身にまとうことによって、私たちは新しい性質を得るのです。
教会にこれまで欠けていたのは、日々キリストにあって死に、再生することでした。
この死と再生がもうすでに成し遂げられたと私たちは勝手に歌ってきましたが、本当はまだその過程が始まったばかりまのです。
救いは私たちの行いによるのではなく、神からの無償の賜物である(エペソ2:8-9)と書いた使徒が、別のところでは「恐れおののいて自分の救いを達成してください」(ピリピ2:12)と書いています。
エスの血潮は罪を洗い清め、十字架は贖い、義とし、罪の代価を払います。
そして復活は回復をもたらし、新しい命を与えます。
しかし、私たち自身が日々自分の十字架を背負うことによってのみ、古い人を死に定めるという必要不可欠なことを、継続して行っていくことができるのです。
この継続的な聖化の過程が日々起こってこそ、一人一人のクリスチャンとしても、キリストのからだ全体としても、成熟した信仰の人が現れるのです。(エペソ4:16)
私たちはみな、生まれて以来、自分が受け入れることのできる自画像を築きあげようとしてきました。神のようになりたいと思っていようが、物静かで善良な人になりたいと思っていようが、力強い人や、あるいは悪人になりたいと思っていようが、全ては同じ努力であり、その目的は自分の思い通りに機能する人格構造を築き上げることなのです。
多くのクリスチャンが、今も自分では気づかないうちに、良き自画像を作り出すために、主を利用しています。祈ったり、何かをしたりするのも、すべてこの目的を達成するためなのです。しかし、それは主のご計画ではありません。
私たちが最高の自己を築き上げるようにとは、主は望んでおられません。
自分が安心して受け入れられるものを作り出そうとするその努力こをが、十字架につけられるべきものだったのです。
自分自身を建て上げようとし続けるのは、実はありのままの自分を受けれることからの逃避なのです。力強い、愛される自分というものを作り出しさえすれば、自分自身を受け入れ、隠れたところとにある腐りきった核の部分に打ち勝つことを追及することなど忘れてしまえると思うからです。
しかし、福音は単純に語ります。
もそんなことは求め続けなくてもいいのです。私たちはすでにありのままの自分、今の成長段階においての自分のままで受け入れられているのです。
主は無条件に私たちを愛しておられます。その主が、私たちを建て上げてくださるのです。
主は私たちに、自分自身をありのままの姿で、腐りきっった変えられていないままの自分として、受け入れてもらいたいと願っておられます。その上で、主の素晴らしさや正しさを、ご自分の聖霊を通して私たちの内に現したいと望んでおられるのです。

多くのクリスチャンが主にあって安息するかわりに、未だ自分を築き上げるための努力を続けているのは、まさに悲劇です。聖化とは、私たちが主にあって安心することができるようになる過程です。
聖化は日々の死と再生です。聖化は一人一人の神の子が聖霊によって導かれ、キリストの十字架を通ってのみ辿り付くことのできる成熟過程なのです。
聖化の生み出すものは、新しくされただけでなく、聖められた人です。

私たちが自分自身の義に依り頼んでいるなら、主が恵みによって主の義を現す余地がありません。しかし私たちが自分の罪を痛感し、砕かれる時、主の命が私たちの内に解放され、復活のいのちとなるのです。まことに、私たちの「力は、弱さのうちに完全に現れるから」(Ⅱコリント12:9)です。

古い自分にどう向き合うか☆

①「古い自分にどう向き合うか」

エスさまを喜んで迎え入れたマルタの中にも「古き人」がいました。
「今日のマルタ」の「古き人」もキリストと共に十字架につけられたのです。
み言葉がそう言っています。
このみ言葉を神の言葉としてしっかり聞かなければなりません。
聞いて、信じます、と受け取らなければなりません。

「わたしたちは、この事を知っている。
わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた」
そうすると、どうなるのでしょうか。

その前に少し聞いてもらいたいことがあります。

多くのクリスチャンは救われた後の「古い自分」にどう向き合っているでしょうか。
普通は、それをクリスチャンとしてはあるまじきことのように思い、心のどこかに押し込めている人もいます。
また、この「古い自分」はもっと変えられて、成長していかなければならないと思う人もいます。
そのために礼拝出席をしっかり守り(そのことはある意味で大切なことではありますが)、そのために毎日のデボーション(これも大切ですが)もしっかりと続けているなら、自然と「古い自分」も変えられて成長していくのではないかと思っています。
そのためにやるべきことをしっかりやらなければという思いになっていきます。
出来ていない自分に責めの思いをもちながら、頑張るのです。

ところが、現実にはそうならない自分を見る時、自分はまだまだクリスチャンとしてはハシクレのクリスチャンだと思ったりします。
更に、問題に直面して、人間関係などで自分のもっと情けない姿を見せられる時、自分は本当にクリスチャンなのかという疑いさえも起こってきます。
それがさらに進んでいくと、自分は果たして救われているのかという救いの確信も揺らいでいきます。
教会の礼拝に出席しても、他のクリスチャンと自分を比較して、他の人が皆立派に見えて、自分だけが駄目なクリスチャンだと思いこんでしまう人もいます。
そうなれば、教会に行くのも嫌になります。
律法的になってはいけないとは分かっていても、現実は律法的になっていることがあります。
クリスチャンは聖書を知っているために、逆に律法的になりやすい面があります。
自分はやるべきことが出来ていないという漠然とした思いがいつも、その人を支配します。

=========
あなたがたは、そんなに物わかりがわるいのか。
御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか。(ガラテヤ3:3口語訳)
=========

何のことを言っているのか、今ここでわたしが言っていることが、よく分からない人はそれで結構です。
しかし、自分にも思い当たることがあるという人もいると思います。
わたしがこのように書いているのは自分の経験からです。
自分の古い人が十字架で死んでいるというみ言葉は、み言葉としては知っていたのですが、それを自分の現実にもってくることをしていませんでした。
み言葉を知っていることと、それを本気で信じて、事あるごとに自分のことに当てはめて、受け取ることとは別の事です。


②「問題の答えは」

前回の続きです。
救われた後のクリスチャンの問題について分かち合っています。
マルタとマリヤのお話しから、姉マルタのあの時の姿からの展開です。
そのマルタの姿はクリスチャンの「古き人」の問題でもあります。
自分の思うようにならないことでイライラしています。
自分に協力的でない人を責め、裁いています。
本人に直接言えないために、他に(主イエスに)問題をもっていっています。

ローマ人への手紙では、これは「古き人」と呼ばれています。
この「古き人」の問題を解決するために、クリスチャンとして自分の努力で何とかしなければならないと思っている人もいます。
あの妹マリヤのように、み言葉に聞く必要があります。

ローマ人への手紙によれば、この問題の解決は十字架にあります。
ローマ6章6、7節の、このみ言葉を覚えていますか。

「わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。
それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。
それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである」

その人は十字架につけられたのですから、死にます。
死ねば、もう何にも反応しなくなります。
罪に対して死んだのです。
これは霊的な真理です。
エスさまはわたしたちの罪のために十字架に死んでくださったという真理と同じです。

さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。
その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。(1ペテロ 2:24口語訳)

神はわたしやあなたのことをこのように見ておられます。
けれども死んで終わりではありません。
十字架の後は、復活です。
死ぬのは終わりではなく、新しい始まりです。
み言葉はすごいことを言っています。

=========
「それとも、あなたがたは知らないのか。
キリスト・イエスにあずかる(結ばれるために)バプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。
すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。
それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。
もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう」ローマ6:3-5口語訳
=========

復活は自分で頑張って出来るものではありません。
神の力が働く結果としての復活です。
どうしようもない自分が死んで、罪から解放されて、新しいいのちに生きることが始まります。

③「祈りのサンプル」

前回の続きです。
ついて来ておられますか。
今日、若い人たちが十字架のネックレスやイヤリングをつけています。
先日、ある女性に聞きました。
「どうしてそれつけているの」
はっきりした答えはもらえませんでした。
不思議ですね。

「古き人」の問題の解決、その答えは何でしたか。
そうです。十字架でした。
ですから、十字架の真理の深さ、広さを霊的な真理として知らされたパウロはこう言っています。

十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。(1コリント1:18口語訳)

何度も同じようなことが繰り返され、パターン化しているものが自分の中にあることに気づきますか。
わたしも古い自分は十字架に死んだはずなのに、なぜ同じことが繰り返えされるのかと思うことがあります。
ところがその都度、その古い自分を主の前に正直に告白し、それが十字架に死んでいることを信じて、認めると、意外と短時間で解放されます。
繰り返し同じようなことが起こってきますが、しかし、このみ言葉を知っている人は、問題を長引かすことがなくなります。

祈りのサンプルです。
もちろん、この通りに祈る必要はありません。
大切なのはあなたの正直な心からの祈りです。

「父なる神さま、わたしは自分でどうしようもない、この思いをあなたの前に告白します。
同じようなことが何度も起こっています。
(どうぞ、自分のその思いや感情を主の前に具体的にはっきり言い表してください)
主よ、わたしはこの古い自分をどうすることもできません。
しかし、み言葉によれば、この古いわたしはイエスさまと共に十字架につけられたのです。
この古いわたしはキリストと共に死んだのです。
この霊的な真理を信じて受け取ります。
エスさま、感謝します。
十字架に死んだわたしはまた、あなたと共に復活し、新しい自分として生きることが出来ます。
感謝します。
『もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる』
このみ言葉を信じて、受け取ります」

こんな感じです。

慣れてくれば、小さなことであっても、どうしようもない「古い自分」に気づいた時、早めにいつでも、どこででも祈ることが出来ます。
やってみますか。

④「いーいお話:福音」

仏教や他の宗教にも教えとしては立派な教えもいろいろあるかもしれません。
しかし、キリスト教の中心はやはり十字架です。
十字架の意味について、お話ししてきました。
そこにわたしたちの問題の答えがあることが分かってきたでしょうか。
キリストの十字架は神の愛の表れでもあります。

この十字架を信仰から外すならキリスト教も単なる倫理的な教えの宗教となってしまいます。
ですから、パウロは自分が宣べ伝え、語っていることはキリストの十字架であると大胆に語っています。
=========
ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。
しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。
このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、
召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。(1コリント1:22-24口語訳)
=========

ところが、ガラテヤのクリスチャンたちは、どうやら、この十字架から離れて、単なる律法的な教えの方に傾いて行っていました。
恵みの福音から離れて、何かの教えや行いによって、自分の問題を何とかしようとしていた、その人たちに対して、パウロはこう言っています。

ああ、物わかりのわるいガラテヤ人よ。
十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に描き出されたのに、いったい、だれがあなたがたを惑わしたのか。(ガラテア3:1 口語訳)

以前のわたしも、この物わかりのわるいクリスチャンのひとりでした。
大切なことは、その都度、み言葉の真理を信じて受け取ることです。
神さまの側では、そのことがもう決定的なこととして決まっているのです。

十字架の贖いによって信じる人のすべての罪が赦されます。
だからと言って、気楽に罪を犯してよいのではありません。

信じる人のその後の歩みにおいては、古い人は十字架によってキリストと共に死にました。
死んだ気がしなくても、霊的な真理として信じて受け取るのです。

それを信じて、受け取っていくなら、その霊的な真理があなたやわたしの現実となります。
これは本当に不思議です。
だからこそ、これはすごい、本当に「いーいお話」であり、福音なのです。
恵みなのです。
わたしたちは恵みによって救われ、その後もまた恵みによって進んでいきます。
そこに安心できる平安があります。

そして、この福音は、世界中いたる所でそうであるように、あなたがたのところでも、これを聞いて神の恵みを知ったとき以来、実を結んで成長しているのである。(コロサイ1:6 口語訳)

気をつけて、神の恵みからもれることがないように、また、苦い根がはえ出て、あなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚されることのないようにしなさい。(ヘブル12:15口語訳)

浜崎英一

「不安」は悪いもの?


アポロに乗って月へ行った宇宙飛行士のジム・アーウィンは、月の近くから見た地球の印象を。「今にも壊れそうな、実に頼りないものに見えた」と言ったそうである。
地球からはるかに離れた宇宙のただ中から見た地球は、ジム・アーウィンにとっては、ちょうど自分の姿を見るようなものだっただろう。

この宇宙飛行士は、不安を持ちながら月に降り立った時に、だれもいないはずの自分の後方から、はっきりと一つの声を聞いたという。
その声はこう告げていた。

『わたしはここにいる』

彼はこの声を、否定しようもないほどはっきり聞いたと証言している。
今、ジム・アーウィンは伝道者となって、神の愛を世界中で伝えているそうである。
私はこの話を聞いて考えた。もし、ジム・アーウィンに、あの地球の頼りなさを実感して不安になるという経験がなかったなら、果たして彼の耳に
『わたしはここにいる』という声は聞こえたであろうか。
この答はまだわからない。
しかしただ一つ言えることは、心の病(ノイローゼ、精神病)の共通した要素である
「不安」は、決して一方的に悪いものではないということである。
それは、神の声を聞くための準備にもなり得る、人間だけに与えられた贈り物かもしれない。

【心の健康診断  古川 第一郎著  まえがきより】