嫉妬
神のいのちの表れである御霊の実と対比して、肉の働きを見ています。
前回の肉の働きの中に、「そねみ」と「ねたみ」という言葉がありました。
覚えていますか。
「そねみ」は、漢字では「嫉み」です。
「ねたみ」は漢字では「妬み」です。
似たような言葉ですが、意味はどう違うのでしょうか。
辞書によれば、「そねみ」とは、人のことをうらやましく思い、自分に劣等感を抱くことだそうです。
また、「ねたみ」とは、人のことをうらやましく思い、相手に悪意を抱くことだそうです。
二つの言葉を合わせると、嫉妬(しっと)となります。
すごいことですね。
2000年前の聖書の時代の人たちは、どれだけ学歴があったか分かりませんが、これらの言葉の意味と、その違いを知っていたのです。
その言葉の違いを知っていたということは、人のことを「そねみ」「ねたむ」経験もしており、その経験を特定の言葉で表現していたわけです。
当時の宗教家たちがイエスを十字架につけようとしていたのは、「ねたみ」のためであったことを、裁判の席にいたローマの総督ピラトには分かっていました。
「そねみ」と「ねたみ」
あなたはこのどちらの経験がありますか。
わたしはですか。
どちらかと言えば、「そねみ」の方です。
この肉の働きのことをよく知っていたので、パウロはイエス・キリストを信じているクリスチャンたちに対して、神のいのちから遠く離れてしまうことを警告しています。
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エペソ4:17-19
そこで、わたしは主にあっておごそかに勧める。
あなたがたは今後、異邦人がむなしい心で歩いているように歩いてはならない。
彼らの知力は暗くなり、その内なる無知と心の硬化とにより、神のいのちから遠く離れ、
自ら無感覚になって、ほしいままにあらゆる不潔な行いをして、放縦に身をゆだねている。(口語訳)
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これは2000前の聖書の時代の人たちだけの問題でしょうか。
次回に続きます
浜崎英一
御霊の実の反対
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「反対から見ると」
神のいのちを意識することの大切さを学んできました。
また、反対側からこれを見ることもできます。
神のいのちではないものは何かということです。
神のいのちの表れとして、9つの御霊の実について見てきましたね。
覚えておられますか。
愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制でした。
それに対比するかのように、聖書にはその少し前に、「肉の働き」が記されています。
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ガラテヤ5:19‐21
肉の働きは明白である。
すなわち、不品行(姦淫)、汚れ(わいせつ)、好色、偶像礼拝、まじない(魔術)、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽(遊興、酒宴)、および、そのたぐいである。
わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。
このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。(口語訳)
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沢山出てきました。
日頃の生活の中で、自分の中に、この全部ではなくても、この中のいくつかの肉の思いが起こってくることがありますか。
わたしはあります。
いつもではないのですが、何かの時に起こってくる思いがあります。
ここに挙げられている一つや二つであっても、それは肉の思いですから、神のいのちとは全く違うものです。
このような思いを心にもった時、ああ、今、わたしの中にある、この思いは肉の思いであって、神のいのちではない、と意識できますか。
そのように意識しないまま、それを普通のこととしてほっておくこともできます。
そのいやな思いを意識できれば、対処の仕方も分かりますね。
十字架です。
「肉の思いは死であるが、御霊の思いはいのちと平安である。」(ローマ8:6)
浜崎英一
いのちを得させる義
「もし、ひとりの罪過によって、そのひとりをとおして死が支配するに至ったとすれば、まして、あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている者たちは、ひとりのイエス・キリストをとおし、いのちにあって、さらに力強く支配するはずではないか。このようなわけで、ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められたように、ひとりの義なる行為によって、いのちを得させる義がすべての人に及ぶのである。」(ローマ5:17-18 口語訳)
「もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。」(ローマ8:10 口語訳)
「身に着けるもの」
自分が無視されたり、傷つけられたりした場合、その人を赦すことは、そう簡単ではありません。
身近な人間関係の中で、そういう経験をすることはありませんか。
赦さなければと頭で思っていても、感情的に赦せません。
心が傷付いている場合は、なお更です。
あなたは赦さないといけないよ、と言われても
出来ない自分がいます。
「もう赦した、赦した」と声を荒げることもあります。
このような人間関係の難しさを経験したことがありますか。
ところが、聖書はただ、赦す赦さないだけを問題にしていません。
それは表面的なことです。
赦すためのいのちが必要です。
いのちの表れが必要です。
それは御霊の実です。
次のみ言葉は黙想するのに、素晴らしいみ言葉です。
だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
互いに忍び合い、もし互いに責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。
主もあなたがたをゆるして下さったのだから、
そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。(コロサイ3:12-13 口語訳)
ここにはいくつかの御霊の実が出てきます。
憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容です。
これを身に着けなさい、と言われています。
どのように身に着けるのでしょうか。
このみ言葉によれば、まず自分がどのような者であるかを思い出すことです。
キリストを信じているあなたは「神に選ばれた者」です。
本当ですか。
み言葉によれば、本当です。
あなたは、神の目には、キリストにあって「聖なる者」と見られています。
信じられますか。
このみ言葉を信じれますか。
あなたはキリストにあって、「神に愛されている者」です。
こんなわたしがですか。
そうです。
神はあなたに目を留め、
あなたのことを心にかけ、
あなたのことを大切な人と見ておられます。
ですから、まずは、自分がそのような者であることを信じ、受け入れ、
その愛のうちにとどまることです。
では、現実はそのようなものではないと思える自分はどうなるのでしょうか。
主イエスを信じて救われた人たちは、
現実のどうしようもない、その自分が出てくるたびに、
その肉の自分は十字架に死んでいることを認めなければなりません。
その十字架のことがハッキリしていないと、
聖書の言っていることは現実離れしたきれいごと、理想の教えにしか思えません。
次回に続きます。
浜崎 英一 「聖書のみことばの黙想」からの転載
聖化とは☆
古い自分にどう向き合うか☆
イエスさまを喜んで迎え入れたマルタの中にも「古き人」がいました。
「今日のマルタ」の「古き人」もキリストと共に十字架につけられたのです。
み言葉がそう言っています。
このみ言葉を神の言葉としてしっかり聞かなければなりません。
聞いて、信じます、と受け取らなければなりません。
「わたしたちは、この事を知っている。
わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた」
そうすると、どうなるのでしょうか。
その前に少し聞いてもらいたいことがあります。
多くのクリスチャンは救われた後の「古い自分」にどう向き合っているでしょうか。
普通は、それをクリスチャンとしてはあるまじきことのように思い、心のどこかに押し込めている人もいます。
また、この「古い自分」はもっと変えられて、成長していかなければならないと思う人もいます。
そのために礼拝出席をしっかり守り(そのことはある意味で大切なことではありますが)、そのために毎日のデボーション(これも大切ですが)もしっかりと続けているなら、自然と「古い自分」も変えられて成長していくのではないかと思っています。
そのためにやるべきことをしっかりやらなければという思いになっていきます。
出来ていない自分に責めの思いをもちながら、頑張るのです。
ところが、現実にはそうならない自分を見る時、自分はまだまだクリスチャンとしてはハシクレのクリスチャンだと思ったりします。
更に、問題に直面して、人間関係などで自分のもっと情けない姿を見せられる時、自分は本当にクリスチャンなのかという疑いさえも起こってきます。
それがさらに進んでいくと、自分は果たして救われているのかという救いの確信も揺らいでいきます。
教会の礼拝に出席しても、他のクリスチャンと自分を比較して、他の人が皆立派に見えて、自分だけが駄目なクリスチャンだと思いこんでしまう人もいます。
そうなれば、教会に行くのも嫌になります。
律法的になってはいけないとは分かっていても、現実は律法的になっていることがあります。
クリスチャンは聖書を知っているために、逆に律法的になりやすい面があります。
自分はやるべきことが出来ていないという漠然とした思いがいつも、その人を支配します。
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あなたがたは、そんなに物わかりがわるいのか。
御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか。(ガラテヤ3:3口語訳)
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何のことを言っているのか、今ここでわたしが言っていることが、よく分からない人はそれで結構です。
しかし、自分にも思い当たることがあるという人もいると思います。
わたしがこのように書いているのは自分の経験からです。
自分の古い人が十字架で死んでいるというみ言葉は、み言葉としては知っていたのですが、それを自分の現実にもってくることをしていませんでした。
み言葉を知っていることと、それを本気で信じて、事あるごとに自分のことに当てはめて、受け取ることとは別の事です。
②「問題の答えは」
前回の続きです。
救われた後のクリスチャンの問題について分かち合っています。
マルタとマリヤのお話しから、姉マルタのあの時の姿からの展開です。
そのマルタの姿はクリスチャンの「古き人」の問題でもあります。
自分の思うようにならないことでイライラしています。
自分に協力的でない人を責め、裁いています。
本人に直接言えないために、他に(主イエスに)問題をもっていっています。
ローマ人への手紙では、これは「古き人」と呼ばれています。
この「古き人」の問題を解決するために、クリスチャンとして自分の努力で何とかしなければならないと思っている人もいます。
あの妹マリヤのように、み言葉に聞く必要があります。
ローマ人への手紙によれば、この問題の解決は十字架にあります。
ローマ6章6、7節の、このみ言葉を覚えていますか。
「わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。
それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。
それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである」
その人は十字架につけられたのですから、死にます。
死ねば、もう何にも反応しなくなります。
罪に対して死んだのです。
これは霊的な真理です。
イエスさまはわたしたちの罪のために十字架に死んでくださったという真理と同じです。
さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。
その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。(1ペテロ 2:24口語訳)
神はわたしやあなたのことをこのように見ておられます。
けれども死んで終わりではありません。
十字架の後は、復活です。
死ぬのは終わりではなく、新しい始まりです。
み言葉はすごいことを言っています。
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「それとも、あなたがたは知らないのか。
キリスト・イエスにあずかる(結ばれるために)バプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。
すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。
それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。
もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう」ローマ6:3-5口語訳
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復活は自分で頑張って出来るものではありません。
神の力が働く結果としての復活です。
どうしようもない自分が死んで、罪から解放されて、新しいいのちに生きることが始まります。
③「祈りのサンプル」
前回の続きです。
ついて来ておられますか。
今日、若い人たちが十字架のネックレスやイヤリングをつけています。
先日、ある女性に聞きました。
「どうしてそれつけているの」
はっきりした答えはもらえませんでした。
不思議ですね。
「古き人」の問題の解決、その答えは何でしたか。
そうです。十字架でした。
ですから、十字架の真理の深さ、広さを霊的な真理として知らされたパウロはこう言っています。
十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。(1コリント1:18口語訳)
何度も同じようなことが繰り返され、パターン化しているものが自分の中にあることに気づきますか。
わたしも古い自分は十字架に死んだはずなのに、なぜ同じことが繰り返えされるのかと思うことがあります。
ところがその都度、その古い自分を主の前に正直に告白し、それが十字架に死んでいることを信じて、認めると、意外と短時間で解放されます。
繰り返し同じようなことが起こってきますが、しかし、このみ言葉を知っている人は、問題を長引かすことがなくなります。
祈りのサンプルです。
もちろん、この通りに祈る必要はありません。
大切なのはあなたの正直な心からの祈りです。
「父なる神さま、わたしは自分でどうしようもない、この思いをあなたの前に告白します。
同じようなことが何度も起こっています。
(どうぞ、自分のその思いや感情を主の前に具体的にはっきり言い表してください)
主よ、わたしはこの古い自分をどうすることもできません。
しかし、み言葉によれば、この古いわたしはイエスさまと共に十字架につけられたのです。
この古いわたしはキリストと共に死んだのです。
この霊的な真理を信じて受け取ります。
イエスさま、感謝します。
十字架に死んだわたしはまた、あなたと共に復活し、新しい自分として生きることが出来ます。
感謝します。
『もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる』
このみ言葉を信じて、受け取ります」
こんな感じです。
慣れてくれば、小さなことであっても、どうしようもない「古い自分」に気づいた時、早めにいつでも、どこででも祈ることが出来ます。
やってみますか。
④「いーいお話:福音」
仏教や他の宗教にも教えとしては立派な教えもいろいろあるかもしれません。
しかし、キリスト教の中心はやはり十字架です。
十字架の意味について、お話ししてきました。
そこにわたしたちの問題の答えがあることが分かってきたでしょうか。
キリストの十字架は神の愛の表れでもあります。
この十字架を信仰から外すならキリスト教も単なる倫理的な教えの宗教となってしまいます。
ですから、パウロは自分が宣べ伝え、語っていることはキリストの十字架であると大胆に語っています。
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ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。
しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。
このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、
召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。(1コリント1:22-24口語訳)
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ところが、ガラテヤのクリスチャンたちは、どうやら、この十字架から離れて、単なる律法的な教えの方に傾いて行っていました。
恵みの福音から離れて、何かの教えや行いによって、自分の問題を何とかしようとしていた、その人たちに対して、パウロはこう言っています。
ああ、物わかりのわるいガラテヤ人よ。
十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に描き出されたのに、いったい、だれがあなたがたを惑わしたのか。(ガラテア3:1 口語訳)
以前のわたしも、この物わかりのわるいクリスチャンのひとりでした。
大切なことは、その都度、み言葉の真理を信じて受け取ることです。
神さまの側では、そのことがもう決定的なこととして決まっているのです。
十字架の贖いによって信じる人のすべての罪が赦されます。
だからと言って、気楽に罪を犯してよいのではありません。
信じる人のその後の歩みにおいては、古い人は十字架によってキリストと共に死にました。
死んだ気がしなくても、霊的な真理として信じて受け取るのです。
それを信じて、受け取っていくなら、その霊的な真理があなたやわたしの現実となります。
これは本当に不思議です。
だからこそ、これはすごい、本当に「いーいお話」であり、福音なのです。
恵みなのです。
わたしたちは恵みによって救われ、その後もまた恵みによって進んでいきます。
そこに安心できる平安があります。
そして、この福音は、世界中いたる所でそうであるように、あなたがたのところでも、これを聞いて神の恵みを知ったとき以来、実を結んで成長しているのである。(コロサイ1:6 口語訳)
気をつけて、神の恵みからもれることがないように、また、苦い根がはえ出て、あなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚されることのないようにしなさい。(ヘブル12:15口語訳)
浜崎英一