教会の意思決定

「神を体験する」の本の中でとても印象に残っている箇所があります。

「教会の意思決定」という以下のページです。(P189-190)

「サスカートンの私たちの教会に神が指示を下さるときは、神は私以外の人に指示をよく下さいました。多くの神からの指示は神からの明確な指示を受けたと確信した『からだ』を構成する教会員から知らされ、『からだ』はそれを分かち合いました。神が私たちのあるべき姿とか、これから何をすべきかを導いて下さっていると感じたことを教会員が分かち合えるような時を作りました。私たちの願いは、誰がそれに賛成し、誰がそれに反対するかを見極めることではありませんでした。教会総会で私たちは決して『この問題に賛成の方は何人で、反対の方は何人ですか』と言うような投票による議決はしたことがありません。それは誤った問いかけです。そのような問いかけをする度に、それは教会を分裂させてしまう可能性を含んでいるのです。

正しい問いかけは『あらゆる情勢や、また私たちが今まで行って来た事について祈って来た事から、何人の方がこの方向に進むべきだと神が明確に導いて下さっていると信じますか』です。

ですからこれは全然違う質問です。それは教会員に『彼らの』意見を聞いているのではありません。それは教会員に神の教会について神が何と言っておられるかを感じているかに基づいて投票するように問いかけているのです。難しい問題の場合には、私たちは討論をしたその当日には結論を出さないようにしていました。これは他人を説得しなければならないというような心理的圧力から人を解放する効果がありました。討論の後は祈りのためと神のみ心を求めるために時間を取るようにしました。

55%の教会員が『神は明確にこの方向に進みなさいと導いて下さっていると信じる』と投票し、45%の教会員が『神はこの方向に私たちを導いて下さっているとは思わない』と投票したとします。私たちはどうしたと思いますか?私たちは計画を実行に移しませんでした。教会員たちの考えは次の二つの事を牧師としての私に言っているのです。

(1)神はその方向に私たちを導いて下さっているようだ。しかし、

(2)『かしら』(キリスト)が『からだ』全体を同じ考えにまとめていないので、今それを行う時ではない。

私たちは55%の人がそう信じたのですから、神がその方向に間違いなく導いて下さっていると感じましたが、同時に45%の人たちが理解をするのに至っていないので時が未だ熟していないと言うことを知りました。

私たちは祈り、働き、神のみわざを見守りました。私たちを通して神が行いたいと願っていることを『かしら』が『からだ』全体に分からせて下さるように願いました。神が関わり、私たちを同じ心、同じ思いを抱くようにして下さったのです。

 どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。それは、あなたがたが、心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです。(ローマ15:5-6) 

さて、兄弟たち。私は、私たちの主イエス・キリストの御名によって、あなたがたにお願いします。どうか、みな一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を完全に保ってください。(Ⅰコリント1:10) 

私たちは神がそのようにして下さる事を信じました。

人は私によく、『あなたは何時も100%の賛成を得られるまで待つのですか』と聞きます。そうではありません。私は主との交わりを持たずに、神の声を聴くことができない人が一人かあるいはそれ以上いるかもしれない事を知っています。あるいは意図的に神に従わない人がいるかもしれません。しかし教会は通常大多数の方が賛成するまで待つようにしています。

『からだ』の賛成しなかった方たちに対して私は怒ったり、失望したりはしません。彼らの不賛成は主との交わりに問題があったのかもしれない事を示しています。牧師として私は彼らが主との正しい交わりに戻れるように私を通して神が働けるように備えをしています。私は、何時もこの事については深く祈らなければならなかったし、神が導いて下さることによってのみ答えが与えられました。

以上の箇所になります。

 

通常、教会では役員会や総会で多数決により教会の色々な事案を決定していると思います。これは「教会員に『彼らの』意見を聞いている」可能性が高く、意見は分裂し、自分の意見が通らなかった場合に苦々しい思いを持つかもしれません。

けれど、私たちキリストの「からだ」の内には「聖霊なる神」がおられ、私たち一人一人が『かしら』なるキリストの御心を求めるなら、必ず『からだ』全体に分からせて下さり、私たちを同じ心、同じ思いを抱くようにして下さるのだと分かります。

教会の意思決定に限らず、聖霊は私たちを「御霊の一致」「信仰の一致」「神の御子に関する知識の一致」に導いて、「キリストの満ち満ちた身たけ」「かしらなるキリストに達する」ようにしてくださいます。

そして「からだ」である教会員はそれぞれの賜物を用いてしっかりと結び合わされ、組み合わされて成長して愛のうちに建てられる。そんな教会でありたいと思います。 

「さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。主は一つ、信仰はひとつ、バプテスマは一つです。すべての者の上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神はひとつです。」(エペソ4:1-6) 

ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。(エペソ4:13)

 むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。

キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。(エペソ4:15-16)

「新生」「聖化」「栄化」の3つの山

「新生」と「聖化」と「栄化」について、中野雄一郎先生のピリピ書の授業で学んだ事がとても大切だったと思い出しました。

私は某神学校で学びましたがレポート課題が93ありました。通信生でしたので山のようなDVDを前に気が遠くなりました。聖書を学べるという喜びがあったから最後まで辿り着けたと思います。

中野雄一郎先生の授業はとても楽しく、いつもゲストを招かれて証しをして下さったり、レポートも長いのは自分が読む気がしないから、レポート用紙に葉書大の囲みを作って、その枠内に書いて下さいと言われました。

課題もびっくりするくらい簡単でした。

例えば 

●「伝道者の書」虚無感をどこで体験し、イエス様によって、どのように勝利したかを書いてください。出来るだけ大きな字で、葉書大にまとめてください。

●「雅歌」ハドソンテーラーについての伝記を読み、感想を葉書大の大きさの用紙にまとめてください。どの伝記の本を読んだかタイトルも書いてください。

新たにされた生涯(キリストの内住の啓示 救いの確信) - ナルドの香油

●「ピリピ書」1章ごとの題目を考えて提出してください。

確か、「マルコの福音書」は「すぐに」という言葉が多いのですが、「すぐに」という言葉が書かれている節を全部書き出してください。という内容だったと思います。

沢山あるレポートの課題の中で、中野先生のレポート課題が癒しになっていました。

他の神学校を卒業された方はきっと「何だそのレポート課題は」・・・と思われるかもしれません・・・。

本題に戻りまして、「ピリピ書」レポート課題は上記「1章ごとの題目を考えて提出してください」でしたので、私は以下のように書きました。 

1章 生きることはキリスト、死ぬこともまた益

2章 キリストの謙碑

3章 主イエスキリストを知っている事の素晴らしさのゆえに、いっさいのことは損

   私たちの国籍は天にあり

4章 いつも主にあって喜べ。もう一度言います。喜べ。

   私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできる。

「題目」にしては長いですが、このように書きました。これだけ書けば良かったのですが、今回は葉書大という条件を外させてもらい、余白に「レジメ以外の授業で教えられた事」として以下の文章と絵を添えました。 

①私たちは生涯自分の弱さを認めなければいけない。(取税人とパリサイ人・・・ルカ18:9-14 のパリサイ人のようにならないように)

②一致の原則(ピリピ2:1)励まし合う、慰め合う、交わる、愛を持つ

③徹底的恩寵によって私たちは赦され続けている自信がある。自信があるから自分の弱さを隠す必要がない。信仰義認の確信を持つ。

そして、中野先生がホワイトボードを使って「新生」「聖化」「栄化」について3つの山を書いて教えて下さったのを書き添えました。(下に写真を載せました。) 

「新生」「聖化」「栄化」という3つの山がある。山は前から見ると一つに見える。しかし登ると3つ山があることが分かる。今、私たちは「聖化」の中に生きている。「新生」は経験しました。今、聖霊によって「聖化」のところを歩んでいます。最後の最後まで気を付けなさいよ。ある人は堕落したじゃないか。 

山を一つに見ると混乱します。救いの確信が無かったり、救われるために努力しようとしたり、逆に諦めてしまったりします。

それから、中野先生は門の絵を描かれ、門の表側には「信ずる者は救われる」と書かれていて、門の裏側には「私がお前を選んだ」と書いてある。と教えて下さいました。

以下の写真は字も絵も下手過ぎてお恥ずかしいですが・・・。

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神との愛の関係

今日は受洗記念日&誕生日です。朝から冷たい雨が降っていますが、2004年の洗礼式の当日は午前中に台風が接近し、自宅での洗礼式は行われるのだろうか・・・と不安に思いながら空を見ていました。夕方には天気が回復し無事に受洗出来たのでした。

これまでずっと私を離れず、導いて下さり、支えて下さる兄弟姉妹を与えて下さった主と兄弟姉妹に心から感謝を捧げます。 

【神との愛の関係】

壁にかかっている長い梯子を想像してみて下さい。そしてあなたの人生はその梯子を登りかけている途中だと思ってください。最後まで登りつめたらそこが間違った所に梯子をかけたのだと気付いたとしたらなんという悲劇でしょうか。一つの人生しかないのに、あなたはそれを誤ってしまったのです。

この学習の初めに、神をあなたの中心に置く人生について話をしました。ということは、あなたと神との関係が正しいものでなければならないということです。これこそ、神があなたを創造された愛の関係、すなわち神中心の愛の関係なのです。

あなたと神(父、御子、聖霊)との関係はあなたの人生における一番重要な関係です。この関係が重要でないとすれば、他に重要なものは何一つこの世に存在しません。

自分の所有しているものは神との関係だけだとしたら、それでも、あなたは心から満足できますか?「神との関係は持ちたいが、何か別のことをしたい」とか、「私ができるミニストリーか何かすることを与えて欲しい」と多くの人は言うでしょう。

私たちは『何かをする』者たちなのです。私たちは忙しくなく何もしないでいると何か自分が価値のない、役立たずの人間なのではないかと感じ始めてしまいます。

聖書は、神が「何にもまして私を愛しなさい。私との愛の関係にあるならば全てのものが与えられる」と言われている言葉を理解できるように助けてくれます。『神に愛される』と言うことは最高の関係であり、最大の業績であり、人生における最高の出来事です。

と言っても、神を愛する表現として、あなたは決して何もしないという事ではありません。神はあなたに従うように、そして神が命じられたことを全て行うように召されています。しかし、あなたは満足するために何かをする必要はないのです。あなたは神との関係において完全に満たされているのです。神に満たされているならば、さらに何が必要ですか?

キリストには替えられません。

世の宝もまた富も、

このお方がわたしに

代わって死んだゆえです。

 

キリストには替えられません。

有名な人になることも、

人のほめる言葉も、

この心をひきません。

 

キリストには替えられません。

いかに美しいものも、

このお方で心の

満たされてあるいまは。

 

世の楽しみよ、去れ、

世の誉れよ、行け、

キリストには替えられません。

世の何物も。 

 「神を体験する」 ヘンリーT.ブラッカビー  、クラウディV.キング 共著 より

神を体験する7つの事実

週1で通っているバイブルスタディーフェローシップ(8月末までは休み)で出会う方々に「どこの教会に通っておられるんですか?」と聞かれ「自宅で家の教会をしています」と言うと驚かれ、「礼拝は家族だけですが、ママ友とバイブルスタディーを自宅でしています」と言うともっと驚かれ、「どうしたら友人を招いてバイブルスタディーが出来るのですか?」と最近聞かれることが多いです。 

振り返ると、救われてほどなくして、牧師夫人と一緒に行ったテキスト「神を体験する」の学びは大きかったなと本棚から取り出してパラパラと見ています。 

「神はその僕を用いてみわざを行う」p19

私たちは、神が「これこれ、しかじかの事を行いなさい」と命じ、そしてそれを行うように私たちを送り出して下さっているように思い込んで行動をおこしてしまうことがしばしばあります。そして必要な時に神に助けを求め、神はそれに応え助けて下さると思ってしまいます。

しかし聖書はそのように記しておりません。神はそのみわざを表わそうとされる時、神はあなたを、あなたの場所から神の場所へと移す必要があります。そこで、神はあなたにこれから行うことを示されるのです。(神があなたに語り掛けておられるのが明確に理解できるように後ほど説明いたします。)

神がなされようとしていることが分かったならば、あなたは何をすべきか・・・神と共に働くこと・・・が分かる筈です。神があなたに働きかけておられるのを知った瞬間にあなたは、自分の道と神の道がどれほど違っているかが分かります。あなたの今の生活のままでは神と共に歩むことはできないのです。 

「神を体験する7つの事実」

1.神は常にあなたの周りで「働き」、「みわざ」を行っておられます。

2.神はあなたとの「愛の関係」を継続することを強く求めておられます。それは現実的で個人的な関係なのです。

3.神はあなたをご自身のみわざに参加するように「招いて」おられます。

4.神は聖霊により、聖書、祈り、身の周りの出来事、また教会を通して「語られ」ます。それは神ご自身や、神の目的、神の道を示すためです。

5.神がご自身のみわざに参加するようにあなたを招かれる時、あなたは信頼と行動が要求される「信仰の危機」に常に直面します。

6.神のみわざに参加するために、あなたの生活を大きく「修正」しなければなりません。

7.あなたが、神に「従い」、神があなたを通してご自身のみわざを完成される時、あなたは「体験」によって神を知るようになります。

救われてすぐは、イエスさまの為に伝道したい!と熱く燃え、やみくもに福音を伝えていた時期もありましたが、この本を読んでから自分で何かをするのではなくて、

「神は常にあなたの周りで「働き」、「みわざ」を行っておられます。」を意識して、というより聖霊が示して下さって歩むようになった気がしています。

私は聖霊バプテスマを受けていないので、使徒の働きで見られるような聖霊のはっきりとした促しを聴けていないと思いますが、それでも小さな促しは聴けるようにして下さっているように思います。 

神がみわざを行おうとされる時は、神は常にその行う事を神の民または神の僕に示されます。「まことに主なる神はそのしもべである預言者にその隠された事を示さないでは、何事もなされない。」(アモス3:7)

神はそのみわざを神の民を通して行われます。あなたに対してもこれと同じです。聖書は神の方法をあなたが理解できるように書かれています。ですから神があなたの人生において働き始める時に、あなたはそれが神のわざであることが分かるのです。p21 

 今、自宅で一緒にバイブルスタディーをしている友人は、私がクリスチャンなのを知っていて、自分が通うラケットテニスの会場のそばに「綺麗な教会があるんだよ」と何度も話かけて来ました。会う度に何度も言うのでネットでその教会を検索したのです。そうしたら礼拝後にウクレレ教室を開催しているのが分かり、彼女と私は「ウクレレを習いたいね」と以前話していた事があったので、その教会の礼拝にウクレレ持参で一緒に行ってみたのでした。

その教会でYさんという女性が「家庭集会をしているので是非来てくださいと」私に話しかけて来られたのでした。後にその集会に参加するようになったのですが、先日2人の方が同時に信仰告白に導かれたのはこの集会の方々なのです。

前述の友人とこの教会に行ったのはその時だけなのですが、それから程なくして、一緒にランチに行った帰りに私が運転する車の後部座席で、「実はキリスト教にかねてから興味があるけど一歩踏み出せないでいるんだよね・・・」と言ったのです。

すごくドキドキしましたが「良かったら一緒にバイブルスタディーをしてみない?」と聞いてみると、やってみたいと答えられたのです。さらに昨年、ある教会のクリスマス礼拝にお誘いしたところ「イエスさまを信じたい」とまっすぐに挙手されたのでした。

このような感じで、主はその友人に既に働いて、みわざを行っておられたのです。 

勘違いや神さまを差し置いて自分が前に出て事を行ってしまう事もいっぱいやらかしていると思いますが、「神を体験する7つの事実」を知らなかったら、このように神を体験する事はできなかったかもしれないと思います。

罪は軽きことではない

レビ記を読むに際して、バックストンの講解を参照にしています。 

レビ記4章は罪祭について書かれています。 

「罪祭を献げることは表面に人々の前に罪を言い表すことです。詩篇五十一・三のように公にその罪をも罪の耻をも言い表します。罪の贖いを求める者はこれをせねばなりません。これは心の苦しみです。けれどもそのために人間の前に己を卑くしますから心が砕かれました。真に信ずることができます。また罪祭を献げることは、公然と己の罪の恐るべきことを顕すことです。 

 

罪のためにこの罪なき聖き者は死なねばなりません。 

 

この罪なき聖き者、イエスさまは私の罪のために死ななければならなかったのだと

あらためて心を刺され 

そうですから罪は軽きことではありませんと解ります。 

 の言葉も重く受け止めることができました。

 

続いて以下の文章も心に留まりました。

レビ記4:11-12

 ここに牛の肉の用法があります。神は罪祭の血をも脂をも受け納れたまいます。これによりてこれを献げる者に和を得させたもうことを示したまいます。けれども牛の体は全く神の前より追い出されました。それによって罪の悪むべきことを教えたまいます。また罪祭が自分の罪を負いますならば神より追い出されて参らねばなりません。すなわち十二節に営の外に携え出されました。これはたぶん天幕より一里半或いは二里ほど離れたところでしょう。燔祭のように神の前に焼かれません。罪を負うところの献げ物ですからイスラエル人の営の外まで追い出されねばなりません。これは悪むべき者となり、詛わるべき者となりました。ヘブル十三・十二に主イエスはその通りに詛われたる者となりたまいましたことを見ます。これは主がゲツセマネの憂いをなしたまいましたわけです。主は死ぬることと恥とを恐れたまいません。けれども神より追い出されて詛わるべき者となることは実に怖るべきことでした。
 この灰を棄てる場所は地獄のごとき処でありました。営外へ追い出されるべきものを置くところである筈です。神は彼処へ汚れたる者と共に罪を追い出したまいます。これは実に怖るべきことです。けれども悦ぶべきことです。神はその通りにその領分を潔めて、御自分の民より汚れたるものを取り去ることをなしたもうことのできるのは実に幸いなことです。 

罪祭を献げる者は、神がその犠牲の血と脂を受け納れたまいましたことを見て心の平安を得ました。もはや自分の罪が全く潔められてその赦しを得ましたと感じます。 

 今のキリスト教はイエスさまの十字架の贖いによって罪が赦されたことを大々的に語りますが、以下の文章については殆ど、語られていないのではないかと自分自身を省りみて思わされます。 

 けれども後にその牛の体の追い出されることを見て、続いて罪の恐るべきことを感じます。今でもたいがいその通りです。私共は幾分かの罪の恐るべきことを感じますから罪の赦しを求めます。けれどもそれについて安心を得ました時に、前より一層深くその罪の怖るべきことを感じます。主イエスは罪のために追い出されたまいましたことを見て神と和らぎを得ました。神の子を追い出すものは真に恐るべき者です。たぶん天国に行く時に感謝と歓喜の中にもなお自分の罪を感じますと思います。 

 罪の赦しへの感謝と共に、イエスさまは燔祭のように神の前に焼かれず、罪を負うところの献げ物ですからイスラエル人の営の外で十字架にかけられ、悪むべき者となり、詛わるべき者となってくださった。灰を棄てる場所は地獄のごとき処だった。神の子をそのように追い出す罪に対してもっと恐れを持ち、罪から離れる必要があると思います。

価値ある人生は御言を通してのイエスさまとの交わり

 

「人生を整理していくことにしよう」  JTJ講師 兼松 一二

 

最近、自分の年齢を他人から言われて、驚いています。歯医者に行って「歯ぐきがとても弱くなっていますね。71才ですから当然と言えば当然ですね」と言われ、私は「えっ、僕がもう71才になってるの?」と驚きました。驚いてばかりいる訳ではありません。人生のターミナルを迎えた者として、心得ていることを少し記します。 

先ず、自分の人生を振り返り「私はイエスさまと出会ったおかげで、良い人生でした」と言えます。16才ちょっと前にイエスさまの事を聞き、3ヵ月教会に通ってイエスさまを信じ、それ以来55年間、主の御言を聴き、応答するだけの単調な生活でしたが、御言を通してイエスさまを知り、交わり、これほど価値のある生活はないと思います。

私は被造物として老いていくにしても、私の信じるイエスさまは私の希望です。主はいつも私を悟し、勇気づけ、方向付けてくださって、やがて朽ちない世界で朽ちない体に変えて入れてくださる約束をいただいています。 

第二に、イエスさまはの信仰の軸になるのは何だろうかと考え、整理しています。私はキリスト信仰の基礎になるのは自分が信仰を持つようになった第一ヨハネ文書にあるのではないかと思い、原典で学び直しました。その後、人間にとって基礎になることは何だろうかと考えました。自分の日々の瞑想の中で「創世記に記されているのではないか」と感じさせられ、一昨年から創世記を調べています。そして自分が生かされている間、モーセ五書を私なりに調べようと思っています。 

第三に、私のしなければならないことは何だろうかと思い巡らしました。「私はイエスさまに出会って、良い人生を送れた」という喜びに、他の方々にも与ってもらい、魂の底からこの類の喜びを分かち合う信仰の真の友を持つために、証し伝道をしようと決めました。イエスさまと交わることを知らず、キリスト教の教えを説いていくことは、やがて自己顕示欲につながり、どこかが歪むでしょう。私にとって、御言を通して示されるイエスさまと交わることは、血の通った信仰を持ち、喜びと生命力につながると理解しています。特に、職業として伝道している方々に申し上げたいことは、キリスト教を説くのではなく、自分の知っているイエスさまを証ししてもらいたいと思います。

教会が衰退している現代の問題は、このことにあるのではないかと感じるようになりました。

あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。(ヨハネ5:39) 

 と言われたイエスさまの御言を心に銘じておきたいものです。

精神医学の目的

精神医学の目的が以下の事であると知りました。  

世界精神保健連盟の元会長で、共産主義者であるブロックチショルムはホワイトハウス内で下記の7項目の実現を宣言しました。1948年(肉声のテープが現存)

1. Destruction of the Constitution 憲法の破壊 (憲法改正の要件緩和、憲法を無視した行政手続きの黙認など)
2. Eradication of boundaries 国境の破壊(→世界政府、自由貿易化、TPPなど)
3. Easy seizure of anyone. 簡単に誰をも拘束する (→措置入院児童相談所などによる一時保護、医療保護入院
4. The "right" to torture or kill. 拷問、殺人の”権利” (→電気ショックの施術、薬物による自白の強要、精神病院内での殺人など)
5. Eradication of all churches  全ての宗教の撤廃 (→「科学的でない」を理由とした宗教の否定、宗教教育の撤廃など)
6. Destruction of sexual morality. 性道徳の破壊 (→フリーセックスや不倫の許容、ポルノ要件の緩和、風俗産業の容認など)
7. Deprivation of future leaders by the creation of dope addiction in schools.学校での薬物常用によって未来のリーダーを奪い取ること(→発達障害や子どものうつなどを理由にした向精神薬の投与)

この目的の殆どが、現在「精神医療」を通して実現している状態ではないでしょうか。

 そして、これを読んだ時に、その背後にいるサタンの事を思わずにはいられませんでした。

悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。(ヨハネ8:44) 

不法の秘密はすでに働いています(Ⅱテサロニケ2:7) 

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗闇の世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。(エペソ6:12) 

  多くの方々が精神医学(医療)の真実を知り、尊い命が守られますように。