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子どもの死

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 「小さな羊」

 

子どもの死は常に悲惨なことだ。

人々はこれを、神の不当な仕打ちと言う。

けれども、神は決して不当なことをしておられるわけではない。

もし神が私たちの子どもに十年の年月しか与えてくださらなかったとしても、

私たちは、その十年のために感謝すべきである。

 

私は、主がこのような出来事をも良い目的のために用いてくださることを知っている。

ある時、子どもを失ったひとりの母親の話を聞いた。

彼女はひどく惨めで反抗的な気持ちになっていた。

ある日重い心を引きずり、ひとりで野原を歩いていた時、

目の前に羊の群れがいるのに気付いた。

羊飼いは、次の草原へ導くために細い橋を渡らせようとしていたが、

羊たちは、ゆらゆらする橋に足を乗せることを嫌がり、右往左往するだけで、

羊飼いに従おうとしなかった。

羊飼いはついに、母羊の柔らかい毛に寄り添っている子羊を一匹つかみ、

肩に担いで橋を渡り、向こう側の牧草地に下ろした。

母羊はすぐに大きな声をあげながら、後から橋を渡った。

他の羊も皆、それについて行った。

 

子どもを亡くした母親はじっとそれを観察していたが、

はっと気づいた。

 

これは自分へのメッセージであると。

 

彼女は、良い羊飼いが

 

「わたしのところに来なさい」

 

と呼びかける声に聞き従わず、長い間頑固に自分の道を歩んできた。

ところが今や神は彼女の幼い息子を取り上げ、向こう側へと安全に運んでくださったのだ。

 

神の目的は彼女をご自身のもとに来させることであり、

これによって多くの人々を救いへと導くことであった。

 

彼女は主のもとに行き、自分の心と人生を神にささげた。

それ以来、彼女は多くの人に証しをするようになり

「良い羊飼い」を見つけるのを助けるようになったのである。

 

          コーリー・テン・ブーム   「何という愛」より

 

読後、次の聖書箇所を見つけた。 

 

主は羊飼いのように、その群れを飼い、

御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、

乳を飲ませる羊を優しく導く。(イザヤ40:11)

 

 

ヨブの結末

ヨブ記 第1章 

:1  ウヅの地にヨブという名の人があった。そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった。
:2  彼に男の子七人と女の子三人があり、
:3  その家畜は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭で、しもべも非常に多く、この人は東の人々のうちで最も大いなる者であった。
:4  そのむすこたちは、めいめい自分の日に、自分の家でふるまいを設け、その三人の姉妹をも招いて一緒に食い飲みするのを常とした。
:5  そのふるまいの日がひとめぐり終るごとに、ヨブは彼らを呼び寄せて聖別し、朝早く起きて、彼らすべての数にしたがって燔祭をささげた。これはヨブが「わたしのむすこたちは、ことによったら罪を犯し、その心に神をのろったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつも、このように行った。
:6  ある日、神の子たちが来て、主の前に立った。サタンも来てその中にいた。
:7  主は言われた、「あなたはどこから来たか」。サタンは主に答えて言った、「地を行きめぐり、あちらこちら歩いてきました」。
:8  主はサタンに言われた、「あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか」。
:9  サタンは主に答えて言った、「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。
:10 あなたは彼とその家およびすべての所有物のまわりにくまなく、まがきを設けられたではありませんか。あなたは彼の勤労を祝福されたので、その家畜は地にふえたのです。
:11 しかし今あなたの手を伸べて、彼のすべての所有物を撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」。
:12 主はサタンに言われた、「見よ、彼のすべての所有物をあなたの手にまかせる。ただ彼の身に手をつけてはならない」。サタンは主の前から出て行った。
:13 ある日ヨブのむすこ、娘たちが第一の兄の家で食事をし、酒を飲んでいたとき、
:14 使者がヨブのもとに来て言った、「牛が耕し、ろばがそのかたわらで草を食っていると、
:15 シバびとが襲ってきて、これを奪い、つるぎをもってしもべたちを打ち殺しました。わたしはただひとりのがれて、あなたに告げるために来ました」。
:16 彼がなお語っているうちに、またひとりが来て言った、「神の火が天から下って、羊およびしもべたちを焼き滅ぼしました。わたしはただひとりのがれて、あなたに告げるために来ました」。
:17 彼がなお語っているうちに、またひとりが来て言った、「カルデヤびとが三組に分れて来て、らくだを襲ってこれを奪い、つるぎをもってしもべたちを打ち殺しました。わたしはただひとりのがれて、あなたに告げるために来ました」。
:18 彼がなお語っているうちに、またひとりが来て言った、「あなたのむすこ、娘たちが第一の兄の家で食事をし、酒を飲んでいると、
:19 荒野の方から大風が吹いてきて、家の四すみを撃ったので、あの若い人たちの上につぶれ落ちて、皆死にました。わたしはただひとりのがれて、あなたに告げるために来ました」。
:20 このときヨブは起き上がり、上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝し、
:21 そして言った、
「わたしは裸で母の胎を出た。
また裸でかしこに帰ろう。
主が与え、主が取られたのだ。
主のみ名はほむべきかな」。
:22 すべてこの事においてヨブは罪を犯さず、また神に向かって愚かなことを言わなかった。
 
この箇所を読んだ時、ヨブの子ども達の事をとても気の毒に思った。
サタンが「:11 しかし今あなたの手を伸べて、彼のすべての所有物を撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」と言い、
それに対して主は「見よ、彼のすべての所有物をあなたの手にまかせる。ただ彼の身に手をつけてはならない」とヨブの身だけを守るように言ったからです。
子ども達は大風によって家が倒れた為に、みな死んでしまいました。
こんなにあっさり人が死んでしまっていいんでしょうか。
 
ヨブ記の最終章
42:10     ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブの繁栄をもとにかえし、そして主はヨブのすべての財産を二倍に増された。
42:11  そこで彼のすべての兄弟、すべての姉妹、および彼の旧知の者どもことごとく彼のもとに来て、彼と共にその家で飲み食いし、かつ主が彼にくだされたすべての災について彼をいたわり、慰め、おのおの銀一ケシタと金の輪一つを彼に贈った。
42:12  主はヨブの終りを初めよりも多く恵まれた。彼は羊一万四千頭、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭をもった。
42:13  また彼は男の子七人、女の子三人をもった。
42:14  彼はその第一の娘をエミマと名づけ、第二をケジアと名づけ、第三をケレン・ハップクと名づけた。
42:15  全国のうちでヨブの娘たちほど美しい女はなかった。父はその兄弟たちと同様に嗣業を彼らにも与えた。
42:16 この後、ヨブは百四十年生きながらえて、その子とその孫と四代までを見た。
42:17 ヨブは年老い、日満ちて死んだ。 
 
「主はヨブの繁栄をもとにかえし、そして主はヨブのすべての財産を二倍に増された。 」という箇所を読んで、確かに家畜は2倍に増やされたら嬉しいかもしれない。
でも、私は小学3年生の時に兄を脳腫瘍で亡くしていますが、
死んだ兄の代わりに別の子どもを2倍に増やしてもらっても兄は戻ってこないのに・・・と思いました。
 
ところが、もう一度ヨブ記1章2節と3節を確認すると
 
(最初)
1:2  彼に男の子七人と女の子三人があり、
1:3  その家畜は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭で、

 (結末)

42:12   主はヨブの終りを初めよりも多く恵まれた。彼は羊一万四千頭、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭をもった。
42:13   また彼は男の子七人、女の子三人をもった。
 
家畜の数は羊 7000頭→14000頭
らくだ    3000頭→  6000頭
牛      500くびき→1000くびき
雌ろば      500頭→ 1000頭
男の子      7人→7人
女の子      3人→3人   
 
何と家畜は2倍になっていますが、子どもの数は2倍になっていなかったのです。
 
なぜ子どもは2倍になっていないのか? 
1:5  そのふるまいの日がひとめぐり終るごとに、ヨブは彼らを呼び寄せて聖別し、朝早く起きて、彼らすべての数にしたがって燔祭をささげた。これはヨブが「わたしのむすこたちは、ことによったら罪を犯し、その心に神をのろったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつも、このように行った。
ヨブは子ども達のために犠牲をやってよく祈っていたからです。
だから子ども達は天国に行っている。
子ども達は失われていない。
やがて天国で会えるから、それが計算に入っている。
天国の実在もここで分かる。
 
という事を聞いた時に、主は何と素晴らしいお方なのだろうと思いました。
 
以下の聖句の意味がより深く理解できるようになりました。  
見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。
あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。
また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。
実際は、ヨブが動物の犠牲を捧げていたから子ども達は贖われたのではなく
その後、この地上に来られた神の御子イエス・キリストが私たち全人類の罪の身代わりに十字架にかかって下さり、3日目によみがえられたからなのです。
 

神の赦しの海

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コーリーテンブームは私たちの赦された罪は二度と思い出されぬよう

「神の赦しの海」に投げ入れられると言っています。

 

海辺には小さな掲示板があり

「魚つり禁止」

と書かれています。

 

私たちはそのような魚つりをしてはいけないのです。

私たちがかつて告白した、自分で出したゴミ袋は

もう主イエスの手に渡されてしまったのです。

 

もう無くなっているものを

渡しなおそうとすることは馬鹿げたことですね。

 

 

不安は悪いもの?

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アポロに乗って月へ行った宇宙飛行士のジム・アーウィンは、月の近くから見た地球の印象を「今にも壊れそうな、実に頼りないものに見えた」と言ったそうである。
地球からはるかに離れた宇宙のただ中から見た地球は、ジム・アーウィンにとっては、ちょうど自分の姿を見るようなものだっただろう。
 
この宇宙飛行士は、不安を持ちながら月に降り立った時に、
だれもいないはずの自分の後方から、はっきりと一つの声を聞いたという。
その声はこう告げていた。
 
『わたしはここにいる』
 
彼はこの声を、否定しようもないほどはっきり聞いたと証言している。
今、ジム・アーウィンは伝道者となって、神の愛を世界中で伝えているそうである。
私はこの話を聞いて考えた。もし、ジム・アーウィンに、あの地球の頼りなさを実感して不安になるという経験がなかったなら、果たして彼の耳に
『わたしはここにいる』という声は聞こえたであろうか。
この答はまだわからない。
しかしただ一つ言えることは、心の病(ノイローゼ、精神病)の共通した要素である
「不安」は、決して一方的に悪いものではないということである。
それは、神の声を聞くための準備にもなり得る、人間だけに与えられた贈り物かもしれない。
 
【心の健康診断  古川 第一郎著  まえがきより】

イエスは主の「主」って?

 
 
 救われてすぐは、イエスさまの事を「主よ」と祈りながら、
なんで「主」と呼ぶのか良く分からなかった。
 
でもエホバの証人の方達と話したり、自分で聖書の事を調べたりしているうちに
 
「主」という言葉の中に含まれている大切な意味をより理解できるようになった。
 
 
 
紀元前333年、アレキサンダー大王が中東を征服した際に、そこに住む人達にギリシャ文化と言語を強要したそうです。
 
紀元前280年~紀元前130年の間、ギリシャ語を話すユダヤ教の学者は旧約聖書ギリシャ語に翻訳しました。これがセプトゥアギンタ(七十人訳)というものです。
新約聖書はこのセプトゥアギンタ(七十人訳)から引用されています。
 
旧約聖書ギリシャ語に翻訳された時期に、ユダヤ人達はYHVH(テトラグラマトン,
神の御名を表す4文字語)の御名を語るのをやめました。YHVHの代わりに「アドナイ」(ヘブル語)という言葉が使われ始め、それは「主」の複数形だそうです。セプトゥアギンタ(七十人訳)では、YHVHの御名は「キュリオス」(ギリシャ語)と翻訳され、それもまた「主」という意味です。
 
エスさまのいた時代には、YHVHは使われなくなり、アドナイとキュリオスのみ使われました。セプトゥアギンタ(七十人訳)と新約聖書でのYHVHの箇所は全てキュリオスと翻訳され、キュリオスはアドナイとYHVHを意味するのです
 
驚く事に、新約聖書ではエスはキュリオス(主)としています。
 
 
「なぜなら、もしあなたの口でエスを主(キュリオス)と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」(ローマ10:9)
 
 
これは主と呼ぶ以上のもので、エス=キュリオス、アドナイなのです。
 
エスであると宣言するという事なのです!!
 
当時、父なる神だけを信じていた一神教だったユダヤ人達がイエスを主であると告白することが、どんなにすごい事であり、ユダヤ教の人達から迫害された所以がよく分かります・・・。
 
 
続く、「主の名を呼び求める者はだれでも救われるのです。」(ローマ10:13)
 
の「主の名」とは、もちろん「イエスの御名」の事で
    イエスの名を呼び求める者はだれでも救われるのです。
 
なぜなら
 
「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も人間に与えられていないからです。」(使徒4:12)
 
だからです。
 
ところが、エホバの証人の新世界訳聖書では
 
エホバの名を呼び求める者はみな救われるのです」(ローマ10:13)とギリシャ語原文ではキュリオスになっている所をエホバに変えてしまっています。これは改ざんであり、文脈を無視し、イエス・キリストの神性を削ぐ意図があります。(全部で237箇所をエホバに変えています。)
 
聖書をよく読めば、信じた人達が誰の名を呼び、宣べ伝え、あがめているかが分かります。
 
「コリントにある神の教会へ。すなわち、私たちのイエス・キリストの御名を至る所で呼び求めているすべての人々とともに~」(Ⅰコリント1:2)
 
「また彼(サウロ)がダマスコでエスの御名を大胆に宣べた」(使徒9:27)
 
「このことがエペソに住むユダヤ人とギリシャ人の全部に知れ渡ったので、みな恐れを感じて、主イエスの御名をあがめるようになった。」(使徒19:17)
 
「しかし主はこう言われた。『行きなさい。あの人は私の名を異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。』」(使徒9:15)
 
他にも使徒21:13ではパウロが「主イエスの御名のためなら、エルサレムに縛られることばかりでなく、死ぬことさえも覚悟しています。」と答えており、
 
使徒15:26でも「このバルナバパウロは、私たちのイエス・キリストの御名のために、いのちを投げ出した人たちです。」とも書いてあります。
 
このように、使徒達はエホバの御名ではなく、であるエスの御名を命がけで宣べ伝え,あがめていたのです。

宗教となってしまう原因

 

 

私たちは傷ついたり、必要を感じたりする時に

罪深い反応をしたくない余り、自分自身の気持ちを切り捨てることによって、

必要や傷の存在を否認する誘惑に駆られることがあります。

 

私たちは自分の気持ちや罪深い反応を素直に主に打ち明けることをしません。

 

傷や怒り、拒絶といった自分の気持ちはクリスチャンらしくないものと思い込んでいるため、それらは押しのけて「いい人」らしく振る舞おうとします。

 

この「いい人らしさ」というものは否認の強力な形です。

要するに罪なる性質が仮面をかぶって登場し

私たちを罪なる性質から救おうということなのです。

心は想像を超えて陰険なのです。

 

誤った反応をして罪を犯すか、それとも反応しまいと

自分の力に頼るという罪を犯すか

いずれにせよ罪なる性質が支配している。

 

私たちが自分の力で自分をコントロールして

神に気に入られる良い人間となることで

何とか救いにあずかろうとすること

これこそが宗教をつくり出すのです。

 

                           (ジョン・サンフォード)

 

長男とウォーキング👟

 

左から祈りの課題が書かれたノート、叶ったら〇を付けています。

真ん中が日記、今年2月から聖霊バプテスマを求め始め、その葛藤や教えて頂いた事などをまとめています。

右が写経のように、大切な聖句を書き写す事にしたノート。その書の執筆年代や執筆事情、特色、主題などもまとめる事にしました。まだほんの少しです。

最近は記憶力の低下が激しく、洗礼を受けてすぐはスポンジが水を吸うように聖句を覚えていたのに、その後通読を怠るようになったのが悔やまれます。今からでも地道にコツコツと・・・。

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今日は土曜参観の振替休日で休みだった長男(小学5年生)と「成長」をしようと昨日から決めていたので、ギデオンとサムソンの箇所を一緒にしました。

高学年用は大人用の聖書も読まないと答えられないので一緒に開いて読みましたが意外と理解が早くてびっくりしました。御言葉の種が豊かに実を結びますように。

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その後、ずっと運動不足と太り気味だった私に付き合ってもらいウオーキングへ!

途中モノレールに乗りましたが意外とスピード感があり、遊園地のアトラクションに乗るように喜んでいました。

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モノレールを降りて、住宅地を抜けると突如、夫婦池と公園が出現

亀を捕まえて家に持って帰りたいなぁと言っていました。

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公園は光が差し込み、神秘的な感じがしました。

梅雨前に来ることが出来て良かったです。

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結構、急な木の階段を登ると鎌倉山です。

いつもは車で行くケーキ屋さんは今日は見るだけ👀

遥か向こうに海が見えています。

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その後、高級住宅地を横目に見ながら、しばらく坂を上り

今日は寄りませんでしたが、とっても素敵な画廊があるんです。

2度程、好きな作家さんの作品を見に行きました。

ホーム - Gallery招山 招山由比ガ浜

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坂道を下ると、七里ガ浜。遠くに江の島が見えています。

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撮り鉄でも乗り鉄でもないですが江ノ電

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1時間半近く歩いたかな。私は全く大丈夫でしたが、息子は足が痛い・・・

と言いだしたので、休憩を兼ねてパンケーキをシェアして食べました。

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 カロリー高めで、結局ウオーキングのダイエット効果はプラマイゼロといったところでしょうか 。 こんな一日でした。