ナルドの香油

誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。(エレミヤ9:24)

It is well with my soul

家事をする時にいつも賛美歌を流しているのですが、今日この曲を聴いて今一番のお気に入りの曲になりました。(曲は2分45秒から)

worshipしか知らない私は讃美歌に疎く、この曲と曲が作られた背景はとても有名だとネットで検索していて知りました。

自分は作詞したホレイショ G.スパフォードのような境遇に至った時に「It is well, it is well with my soul」と言えるだろうかと思ってしまいます。けれどキリストがわたしの罪と魂の為に十字架にかかり血を流して下さった事実と全ての罪が赦され、御子のいのちを持ち、その交わりに与っている事、人知を超えたキリストの愛を実体験として知っている時(それが聖霊バプテスマを表すなら私は未だ受けていないが。。。)「It is well, it is well with my soul」と言えると思う。そして 

あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに顕れます。(コロサイ3:3-4) 

実は私たちはすでに死んでおり、私たちのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されている!そしてキリストの十字架と復活によって、私たちも復活し、天の故郷に行くことができる。

そしてヨブの結末が子どもを失ってしまった方の心に慰めを与えてくれると思う。

ヨブの結末 - ナルドの香油

 

日本語では讃美歌520番(静けき河の岸辺を)、聖歌476番(安けさは川のごとく)になるようです。

youtu.be 

"It Is Well With My Soul"

When peace like a river attendeth my way
When sorrows like sea billows roll
What ever my lot you have taught me to say
It is well, it is well with my soul

Though the devil will ruin, though trials may come
Let this blessed assurance control
That Christ has regarded my helpless estate
And He shed His own blood for my soul

It is well, with my soul
It is well, it is well with my soul

My sin, oh the bliss of this glorious thought
My sin not in part but the whole
Is nailed to the cross and I bear it no more
Praise the Lord, praise the Lord, oh my soul

It is well, with my soul
It is well, it is well with my soul

It is well with my soul
It is well, it is well with my soul

And Lord haste the day when my faith shall be sight
And the clouds be rolled back as a scroll
The trump shall resound and the Lord shall descend
Even so, it is well with my soul

It is well with my soul
It is well, it is well with my soul

It is well with my soul
It is well, it is well with my soul 

1.平安が川のように心に流れるときも

悲しみが大波のように押し寄せるときにもどんな状況に置かれても、

このように言うことをあなたは教えてくださった

「いたって良好、我が魂はいたって良好」と。

2.サタンが襲って来たり、試練にあっても、

この尊い確かな平安が私を治めるように。

つまり、キリストが私のみじめな様をご覧になり、

私の魂のためにご自身の血を流してくださったというゆるぎない事実が、

私の心を治めるように。

3.我が罪 - 嗚呼、この輝かしい事実がもたらす無上の喜びよ-我が罪は-その一部ではなく、全部の罪が-主の十字架に釘付けられた。 だから私はそれをもはや背負わなくてもよい。 主を賛美せよ。主をほめたたえよ。我が魂よ。

4.今こそは、私にとって生きることはキリストであるように。

死に臨む時も、私には何の痛みもないだろう。

なぜなら、生きている間と同じように、

死の時にもあなたは、あなたの平安を私の魂にささやいてくださるから。
5.しかし、主よ。我々はあなたを、あなたの再臨を待ち望みます。

墓ではなく、天が我々の目指すところです。

天使たちのラッパよ!主の御声よ! 確かな希望。恵みあふれる我が魂の安息は。

(モメ子さん私訳より転載させて頂きました)

http://momekomemo.blogspot.jp/2013/01/it-is-well.html  

 

聖歌476番「やすけさは川のごとく」
作詞:ホレイショ G.スパフォード(1822-1888)
作曲:フィリップ P.ブリス   (1838-1876)

      引照:詩篇46篇1節

 この多くの人々に愛唱される賛美歌は、シカゴに住む長老派の平信徒ホレイショ G.スパフォードによって書かれた。彼は、ニューヨークのノーストロイに1828年10月20日に生まれた。若くしてスパフォードは、シカゴにおいて最も成功した法律業務を営む地位を築いた。しかも、その成功にもかかわらず、彼は常に、キリスト教活動に熱心な関心を持ち続けた。彼は、D.L.ムーディーや、その時代の他の福音的指導者たちと密接で活発な交際を楽しんでいた。彼について、著名な福音音楽家ジョージ ステビンズは、「並みはずれた知性と、上品さと、深い霊性とを持った、聖書の熱心なる探求者」と記した。

 1871年のシカゴ大火の数か月前、スパフォードは、ミシガン湖畔の不動産物件に、莫大な投資をした。そして、彼の資産は、この大災害によって、焼失した。丁度この少し前に、彼は、息子の死を体験していた。スパフォードは、イギリスにおいてもたれるムーディとサンキーの集会に出席し助けるため、また、妻と四人の娘たちの休養をかねて、1873年に、一家のヨーロッパ旅行を計画した。その年の11月、仕事の詰めの段階での思いがけない展開によって、彼はひとりシカゴに残り、妻と四人の娘たちを計画通り、船に乗せて旅立たせた。彼は数日後に後を追うつもりであった。11月22日、その船は、イギリスの貨物船と衝突し、12分後に沈没した。数日後、生存者たちが、ようやくウェールズカーディフに運ばれ、スパフォード夫人は「ひとり助かった」と電報を打った。
間もなく、スパフォードは残された夫人を迎えに船に乗った。「悲しみは波のごとく我が胸満たすとき」とスパフォードが個人的な悲しみをこの詩の中に、非常に意味ありげに書いたのは、彼の四人の娘たちが溺死したと考えられる海域に近づいた時だったと推測される。  

 しかし、スパフォードが、この詩の主題を、人生の悲しみや試練に留めておかず、むしろ、三節ではキリストの贖いの御わざに、4節では栄えあるキリスト再臨の期待へと注意を向けていることは重要です。人間的な言い方をすれば、ホレイショ・スパフォードが経験したような個人的な悲劇と悲しみを体験した人が、なお、「すべてやすし」と得心の行く明瞭さで語ることが出来るということは驚異的なことです。

 彼は晩年に、精神錯乱を経験し、そのため、自分が再臨のキリストであるという妄想を抱いてエルサレムへ行き、1888年、その地で60歳の生涯を閉じた。

 フィリップ P.ブリスはスパフォードの体験とその詩とに非常に感動して、すぐさま、その詩に曲をつけた。それは1876年に出版されたサンキーとブリスによる賛美歌集の一つ福音賛美歌第二巻に最初に発表された。   

http://www.eva.hi-ho.ne.jp/kidakei/476%20It%20is%20Well.txt

原型の教会

私が救われた教会は単立のハウスチャーチ(家の教会)で、牧師夫妻と私を含め信徒が4人の計6人の小さな群れでした。

その教会ビジョンは

①教会堂を持たない。

②人を教会に「連れてくる」のではなく、自分達が普段いる場所や人(職場、学校、友人、)の所に「出て行って」福音を宣べ伝える。

③伝道して信じた人の家族が全員信じて、その「家族が教会」になる。

④そういう教会を500作る。(牧師はイエスさまからこのビジョンを与えられた時に500という数は人間には到底無理なので神さまからのものだと思ったそうです。)

現在、私は娘と家庭礼拝を持ちつつ、プリスカとアクラのようなご夫妻が開かれている家庭集会に月に一度、集っています。そこには聖霊の導きと臨在があり、御言葉と祈りと交わりのみのシンプルなものですがこれこそ教会ではないかと思っています。

「教会堂」か「家(個人宅)」かという場所へのこだわりはありません。

ただ「教会堂」は、取得するにも維持するにもとても巨額な献金が必要になることが問題だと思っています。

現在の教会は神学校を卒業した牧師による牧会が一般的ですが、使徒達の時代はどうだったのかが使徒の働きを読むと分かります。

使徒達の時代、パウロや無名の信徒達は宣教のために出て行きましたが、短いところでは3か月でその場所を迫害のために去らなければならず、断食と祈りを通して長老を指名して別の地へと異動しました。

断食と祈りを通して長老を指名するプロセスは『信頼して主のケアのもとに委ねる』という結果に結び付きました。 

また、彼らのために教会ごとに長老たちを選び、断食をして祈って後、彼らをその信じていた主にゆだねた。(使徒14:23) 

23節の最後の部分は、新たな長老たちは『主に信頼することを学んだ』ことを示唆しています。バルナバもバウロも主に信頼していました。彼らは十分な訓練を受ける時間はありませんでした。神学校もありませんでした。新しい牧師をかかえる教団も教会もありませんでした。人間関係の上にのみ成り立っていたのです。 

現在のように、教会堂を建てるという問題、牧師給をどうするかの問題、牧師になるには神学校に行かなければならないというような事は一切ありませんでした。その為、短期間で沢山の教会が生み出されて行ったのです。 

私があなたをクレテに残したのは、あなたが残っている仕事の整理をし、また、私が指図したように、町ごとに長老たちを任命するためでした。(テモテ1:5)

私はこのような原型の教会に戻ることが必要だと考えています。

今ある教会、教団が上記のあり方に回帰していくのが一番最善ですが、変わらない場合は聖霊の導きによって起こされた兄弟が単立教会として起こされるのではないかと思っています。

私が集う家庭集会のプリスカとアクラのようなご夫妻はⅠテモテ3:1-7にある「監督の職につく基準」をしっかり備えておられるので長老、霊的責任者として適格だと思っています。

ただ今後ネックに思うのは「聖餐式」や「祝祷」を行ってもいいのかどうかです・・・。原型の教会なら行ってもいいのは分かっているのですが、他者へのつまずきになるなら控えるべきなのか・・・。

いずれにしても使徒の働きでは「聖霊」が主人公になったように豊かに働いておられるのが分かります。もっと「聖霊」の働き、導きを認め、気付いて行かなければと思います。

それと一番大切な事は教会は主が建てるという事を忘れてはいけないと思いました。 

ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。(マタイ16:18)

(「星のように砂のように」 ラルフ・モア著 を参照しています。この本は「教会増殖」を目的にしているようで、本来の目的である「キリストの御名において、キリストの栄光だけを求めて、聖霊の導きによって父なる神を礼拝を捧げること<an east windowのミヤサカさんのブログより>」についての言及が無いのが気になりました。)  

新約聖書における家の教会 - an east window

 

異なった霊の見分け②

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次に、少し前にキリスト教書店でベストセラーになっていた『わたしは決してあなたをひとりにしない』サラ・ヤングの本ですが、
 『羽村の風』
というブログに、その問題点が指摘されていますが、私は中でも次の点に着目します。 
『キャサリーン・マーシャルやアンドリュー・マーレーといった作家の影響から、ヤングはこの神の「臨在」を追い求め、どのようにしたら常に神の臨在を知り、また感じられるかを学ぼうと探求し続けた。神への愛において成長し、神と共にある時間を過ごしたいという願いにおいて成長し、また祈りにおいて神と語り、御言葉を通して神に聞こうとした。彼女が「呼んでおられる神」(原題God Calling)という本を手にしたのは1992年の事であった。(この本は「ある二人の”聞き手”によって書かれた霊想書」であった。この女性たちは、神の臨在の中に静かに待ち、神とペンを手にし、神から受けたメッセージを記録しようと努めた。それらのメッセージは一人称で書かれ,”わたし”は神を意味していた。この本が宝物となり、彼女の教科書になったのである。』 
臨在を求める事は大切だと思いますが、「呼んでおられる神」(原題God Calling 「ある二人の”聞き手”によって書かれた霊想書」)いう本は違う霊とコンタクトする為の手引書的な本なのではないかと思っています。
(著者は何を語っているか) 
ヤングは一年をかけてとりくむ霊想書を、その全てにおいて一人称、つまりイエスからのメッセージとして記している。各々はそれぞれいくつかの聖句が続く。以下は1月8日の霊想の前半部分である。

「わたしは、やわらかに私の臨在を告げる。輝かしい彩りのきらめきが、やさしくあなたの良心に触れ、入口はどこかと探す。わたしは天においても地においても全ての力を持っているが、わたしはどこまでもあなたと共にありたい。あなたが弱ければ弱いほど、わたしはあなたに優しく近づこう。あなたの弱さを、私の臨在の戸のところに置け。足りなさを感じたときはいつでも、わたしがあなたの永遠の助け主であることを思い出せ。」

霊想の大半が命令よりもむしろ確言(affirmation)であることは興味深い。それが意味するのは、この本が規範的であるというより、描写的な傾向に向かうであろう、ということである。我々にどう生きるべきかと語るイエスは少なく、イエスとは誰で、我々は何者で、そしてどうすればイエスの「臨在」を楽しめるかを語るイエスが多い。 以下の点は注目に値する。すなわち、こうした確言が扱っているのはクリスチャンとしての経験の非常に狭い範囲だけである、ということである。さらに、本書イエスの言葉の多くが、聖書においてイエスが語る事とはごく僅かしか類似点がないことも同様に注目に値するだろう。例えば、「わたしの臨在の光を、あなたのただ中へと染み渡らせよ。あなたの思考の焦点をわたしに向けるようにして」とあり、その少し後にはこう続く。「わたしの臨在の神秘の中に隠れることを学べ。この世において、あなたの義務を行うかのようにして」。私にはこれが何を意味するのか分かりもしなければ、どのように適用できるのかも分からない。そこには私が従うべき明瞭なる命令もなければ、イエスとは誰かについての、何の明確なる言葉も無いのである。
(結論)
「わたしは決してあなたをひとりにしない」は、それ自身のあり方において、非常に危険な書物である。その神学は概ね妥当に聞こえはする。しかし私が最も関心を抱くのは、本書がイエスから直接言葉を聞くよう教えていること、そして、そのような言葉を分かち合うのがクリスチャンの普通の経験である、と教えていることである。事実、本書はその経験を他の全ての上に置いている。そして、このことは本書をして、危険な前例とならしめている。私は、この本を推薦するべきいかなる理由も見いださない。 
 
最後に「天国は本当にある」トマス・チュナム著を以前、母教会の信徒の方からお勧めされて読みましたが、この本に出てくるイエスさまの言葉も偽物であると分かります。
著者は自称イエスに連れられて何度も天国に行った事が書かれています。
地獄に自分の両親がいるのを見たり、堕胎された赤ちゃんたちがいる所に連れて行かれ、「わたしは堕胎が嫌いだ!」とイエスさまが怒って叫んでいる箇所を読んで、堕胎は罪だけれど、このような本を通してイエスさまはこんな事は言わない・・・と思い、違う霊だとすぐに分かりました。
その他にも 
「チュナムよ、あなたにはなすべき事がたくさんある。わたしはあなたに本を書いてもらいたい。その本は終末に関する重要な本だ。その本はたくさんの言語に翻訳されるだろう。わたしはあなたが生まれる前に、すでにこの事のためにあなたを選んだのだ。わたしの力をあなたに注ぐあなたの体をいつも震えさせる理由がこれだ。あなたに聖霊の権能が臨まないなら、わたしはあなたを用いることができない。あなたが初めてわたしに心を開いた時、わたしの力があなたに働き始めたという事を覚えていなければならない。あなたはわたしの働きのために、私が信じて委ねる娘なのだ。」(p111)
「私に任された働きを成し遂げるためには、主が私の人生で成すべき事が、まだたくさんありました。過ぎ去った過去が私に劣等感を抱かせ、自分自身を無価値な存在かのように感じさせていました。主は、私がまず自信を持つようにしておられるようでした。『わたしの娘よ、あなたに天国の重要な部分を見せたから、あなたが見た事を、全ての人に伝えるのだ。わたしは今日、以前に見せた多くの事を再び見せた。あなたが受けた召しを果たす時に、多くの人が救いを受けるだろう。この本を全世界の人が読むだろう。』
「けれども主よ、私は何者でもありません。どうして私をお選びになられたのでしょうか?なぜ、すでに有名な人を選ばれなかったのですか?」
『チュナムよ、わたしはこの終わりの時の働きのために、あなたを創造した。わたしたあなたを有名にするのだ。すでにあなたはわたしの教えを学んでいる。そしてわたしは、あなたが忠誠を尽くす者であるのを知っている』(p149)
「あなたは特別な心を持っている。それが、わたしがあなたの祈りにこたえる理由だ。わたしは、あなたの心が純粋で従順である事を知っている。わたしは多くの事について、あなたを信頼している。だから、わたしはその重要な働きのために、あなたを選んだのだ。」(p58)
「主は語られました。『あなたは、わたしの尊い娘だ。あなたがどこに行っても、わたしはあなたと共にいるだろう。わたしはそのままのあなたを愛している』(p45)」
チュナムに語り掛ける霊は何度も何度も、「この本を出版しなさい」と語るのですが、それは、サタンがこの世で人々から崇められたいために起こしている事で、
さらに「あなたを有名にする」とか、「あなたの心が純粋で従順であることを知っている」「わたしの尊い娘」のように「自尊心」をくすぐるような事を言ってきます。
 
自我に死んでいない状態、自己憐憫、セルフイメージの低さ、逆に自己顕示欲などを抱えていると、サタンはそこを足場にやってくるような気がします。
 
以上、4人の方に語り掛けて来た霊は「神からの霊」ではなく、「前に受けたことのない異なった霊」であり、「光の御使いに変装するサタン」の霊なのではないかと思います。
「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら偽預言者たくさん世に出て来たからです。」(Ⅰヨハネ4:1)
「というわけは、ある人が来て、私たちの宣べ伝なかった別のイエスを宣べ伝えたり、あるいはあなたがたが、前に受けたことのない異なった霊を受けたり・・・(Ⅱコリント11:4)」
「しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです。」(Ⅱコリント11:14)
しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。(1テモテ4:1)

異なった霊の見分け①

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マザーの死後、マザーの書簡集“Come Be My Light”が発売され、
「マザーの内面告白を綴った手紙は、多くの人々、特にキリスト教関係者に大きなショックを与えることになりました。人々は、マザーを理想的な信仰者・揺るぎない不動の信仰者と考えてきたからです。まさかマザーが神の存在に疑念を抱き、亡くなる直前まで“神の不在感”という「心の闇」に悩み苦しんできたことなど想像だにしなかったのです。」
 より。
 
マザーテレサがずっと「神の不在感という心の闇」に悩み苦しんでいた事がどうしても気になって、「マザーテレサ書簡集(平和をもたらすために)という別の本を購入して読んでみました。
 
その中に驚くことが書いてありました。
インドでの働きを始める前に、非常に具体的な言葉を持って、イエスさまから直接話しかけられているのです。  
ある日、聖体拝領をしている時に、同じ声がはっきりと言いました。
「わたしはインド人の修道女が欲しいのです。わたしの愛のために自らを犠牲にする人々。マリアとマルタのように生き、わたしの愛を人々の魂の上にいき渡らせるために、わたしとしっかり結びついている人々。十字架の貧しさを生きる、自由な修道女たちがほしいのです。十字架のいつくしみによって満たされ、愛に満ちた修道女たちがほしいのです。あなたは、わたしのためにそうするのを拒むのですか。」
別の日にはこうも言いました。「あなたは伴侶であるわたしのために、そして人々の魂のためにもう一歩を踏み出すことを恐れるのですか。もうあなたの寛大な心は失われたのですか。わたしはあなたにとって二番目に大事な存在にしか過ぎないのですか。あなたは人々の魂のために死んでいません。だから人々の魂の上に起こっていることを無視できるのです。あなたのこころはまだわたしの母が苦しんだような悲しみの中に沈んだことがありません。私たちは自分達のすべてを人々の魂に捧げたのに、あなたはどうなのですか。
あなたは自分の召し出しを失うことや、世の中に出ていくことや、忍耐の中で欠乏に苦しむことを恐れているのです。それは間違っています。あなたの召し出しは人々の魂を愛し、彼らと共に苦しみ、彼らを救うことなのです。もう一歩を踏み出すことで、あなたはわたしの望みに答えることができます。簡素なインドの服か、わたしの母の着ていたような、簡素で貧しい服を着なさい。あなたの今の修道服が神聖なのは、それがわたしのシンボルだからです。あなたが着るサリーが神聖なのは、それがわたしのシンボルとなるからです。(10P~11P) 
 聖母マリアの話題が出て来てカトリックならではの感じはしますが、イエスさまは簡素で貧しい服を着なさいとか、あなたが着るサリーが神聖で、シンボルになるなどと、そのような事は話されないと私は思うのです。
また、「簡素に」と語られた事への結果が次の記事に表れていると思います。
 
エスさまの語り掛け以外にもマザーは幻をいくつか見るのですが、その中の一つは聖母マリアからの語り掛けもありました。 
「もう一度とても大きな群衆を見ました。彼らの顔には大きな悲しみや苦しみが浮かんでいました。彼らと向かい合っている聖母のそばで、わたしはひざまずいていました。聖母の顔は見えませんでしたが、聖母が次のように言っているのが聞こえました。『彼らの世話をしなさい。彼らはわたしのものです。彼らをイエスのもとに連れて行きなさい。イエスを彼らのもとにお連れしなさい。恐れてはいけません。ロザリオの祈り、とくに家族のためのロザリオの祈りを彼らに教えなさい。そうすればすべてのことはうまくいくでしょう。恐れてはいけません。イエスとわたしが、あなたと、そしてあなたの子どもたちと共にいます。』」 (P30)
 驚くことに聖母マリアが語り掛けていますし、ロザリオの祈りをインドの人達に教えなさいと、おかしな事を言っています。(カトリックの方にはおかしくないのかもしれません)
それにマリアを通して救い主イエスさまはお生まれになりましたが、マリアはただの人間です。その人間が語りかけてくるとしたら、それは死者と話しているか、マリアを名乗る異なる霊ではないでしょうか。
 
マザーテレサがインドで世界的に有名な働きをするようになるきっかけとなった語り掛けは、私はイエスさまからのものではなかったと思います。
本物のイエスさまと繋がっていなかったから、マザーは心の闇をずっと持ってきたのだと思いますし、超自然的な出来事は恍惚状態を生むと思うので、それが去ってしまった後は、暗闇のように感じてしまうのだと思います。
 
私はクリスチャンになる前はニューエイジ思想の本ばかり読んでいました。
中でも『フィンドホーンの花』という自伝を書いたアイリーン・キャディの本を沢山読んでいました。(他にもシャーリーマックレーンの「アウトオンアリム」や「前世療法」「神との対話」「アルケミスト」などなど・・・)
クリスチャンになった時に、スピリチュアル系のオカルト本は全て処分してしまったのですが、今回古本でもう一度手に取り、飛ばし読みでところどころ読んでみましたが気分が悪くなりました・・・。
 
アイリーンキャディは霊媒師と関わりのあるピーターと出会い、夫と子どもを捨てて駆け落ちし、自分のしてしまった事に苦悩していたある日、聖堂で祈っていた時に、神(内なる神)からの語り掛けをききます。 
落ち着きなさい。そして私が神であることを知りなさい。あなたは人生の大きな一歩を踏み出したのです。私の声に従ってゆけば、すべてはうまくゆきます。私はピーターとあなたを特別な目的のために、私のために特別の仕事をするために、一緒にさせたのです。あなたた方は一体となって働くのです。時間がたてば、もっとすべてが良く理解できるようになります。このような方法で一緒にされるケースは極めて少ないと言えます。こわがらないように。私は常にあなたと共にいます。 
という声でした。所々、聖書の言葉が使われていると思います。
『私が神であることを知りなさい。』『私は常にあなたと共にいます』です。
 
その声はこれから起こることを予言し、癒しを行い、聖書の言葉を多用して語りかけてきます(但し十字架と復活について一切言及がない)。またアファメーションをよく行っています。
既に彼女は他界されていますが、現在スコットランドにはフィンドホーン財団というフィンドホーン・コミュニティ(生活共同体)の教育・組織的活動の中枢組織ができて、世界中からニューエイジ思想のメッカとして人が集まってきています。
フィンドホーン日本語ホームページからhttp://www.findhorn.org/japanese/#.U3qxoqmCjIV
アイリーンは国連から高く評価され、大英帝国勲章メンバー:首相の推薦によって、英国女王から与えられる勲章)を授与。精神・スピリチュアル分野の研究を通して、民間に確固とした影響を与えた人として選ばれ、社会的にその栄誉を讃えられています。マザーテレサノーベル平和賞を受賞したのと似ていると思います。
 
小さくて、誠実で、愛のある二人の女性を通して、この世で大きな働きが成されましたが、私はこの背後にある霊が同じものではないかと感じています。(つづく)

宣教の言葉のパラダイム・シフト (後藤 敏夫)を読んで

いのちのことば社の「いのちのことば 8月号」に「『神の秘められた計画』福音の再考」の著者 後藤 敏夫さんがこの本の紹介で次のように書かれていました。 

わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している(イザヤ43:4) 

という今、盛んに語られるみことばを、私は教会生活のある時期まで聞いたことがありませんでした。

それまではヨハネ3章16節が小聖書と呼ばれて福音派の宣教の中心聖句でした。 

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 

どこかで宣教の言葉のパラダイム・シフトが起こったようです。それはたとえば中高生のキャンプなどで、「あなたは愛されている」とか「あなたは宝物」とか「大切なきみ」といった主題が好んで取り上げられるようになったころ、私の記憶では1970年代の終わりから1980年代にかけてのことです。

その背景には、急速に進行する世俗化、人間の全体性が失われ心理的に切り刻まれるストレスに満ちた競争社会、家庭の崩壊とも結びついた現代人のセルフイメージの低下と自己承認欲求、そしてポストモダンの思想や生活様式の多様化ということがあります。そういう中で、それ以前の「あれもだめ、これもだめ」という敬虔主義的福音派の道徳律法的メッセージが、この世に生きる信徒の生活に対応しきれなくなり、窮屈で抑圧的にすら感じられるようになりました。

牧会の現場に心理学やカウンセリングが導入され始めた頃、新しい風が吹いて来るようで、あるがままの心と身体が軽くなるような喜びや開放感がありました。しかし、どこかで福音派の講壇のメッセージや信仰がより実利主義的になり、人間中心になりました。それは賛美の歌にも反映します。「きみは愛されるために生まれた」というのは大切な福音のメッセージです。しかし「きみは愛するために罪を赦されて新しく生まれた」という十字架の福音のメッセージを聞くことは稀です。

「イエス様は私たちの罪のために十字架で死なれました」、「イエス様を信じれば一度限りすべての罪が赦されます」、「イエス様を信じて天国に行きましょう」という福音派の宣教の言葉が、救われた者としてイエス様に従う生活を生み出さないという現実があります。

『神の秘められた計画』(著書)は十字架の罪の赦しは何のためだったのか、私たちが救われた目的は何かを再考した本です。それはこの時代を生きるクリスチャンにとって、キリストの福音を宣べ伝えるために切実な課題です。

 

と書かれていました。

「きみは愛されるために生まれた」ではなく

「きみは愛するために罪を赦されて新しく生まれた」という表現が聖書のメッセージだと思いました。 

それはイエスさまの言葉でも分かります。 愛されるためだけでなく、愛し合うためにイエスさまは十字架に架かって下さったのです。

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように愛し合いなさい。(ヨハネ13:34)  

それから

わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している(イザヤ43:4) 

の御言葉はバプテスマのヨハネやイエスさまが説いた「悔い改め」には繋がっていきません。

私たちはキリストが十字架で死ななければならないほど全てが罪に汚染されている事、だから私たちもキリストと共に十字架について死んだという事、そしてキリストが復活された時に私たちも共にキリストの内によみがらされたという事です。

それはわたしたちが罪の奴隷から解放され義の奴隷となり御霊の実を結ぶためですが、何より神が求めておられるのは私たちと交わりを持つことなのだと思います。

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。(ガラテヤ2:20) 

あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。(コロサイ2:12)  

 ローマ書6章(塚本訳)

:3 それともあなた達は知らないのか、キリスト・イエスへと洗礼を受けたわたし達はみな(彼のものになって、)彼の死へと洗礼を受けたのである。

:4 だからこの死への洗礼によって、彼とい一しょに(死んで一しょに)葬られたのである。これはキリストが父上の栄光によって死人の中から復活されたように、わたし達も(復活して)新しい命をもって歩くためである。

:5 なぜなら、わたし達が(洗礼によって)彼と合体してその死にあやかる者になった以上、復活にもあやかるのは当然だからである。

:6 わたし達はこのことを知っている。──(洗礼は十字架をあらわす。)古いわたし達は(キリストと)一しょに十字架につけられたが、これは罪の体がほろび失せて、わたし達がもう二度と罪の奴隷にならないためであると。

:7 死んだ者は罪から解放されるからである。

:8 しかしキリストと一しょに死んだ以上は、一しょに生きることをもわたし達は信じている。 

私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。(Ⅰヨハネ1:3) 

 

信じていても感じる空虚感

『さがしていた どんなものも満たすことのできない心の中を

永遠に満たし続けるその愛を

尽きることも変わることもない愛が確かにあるならば

信じよう

人のいのちは輝きはじめる』 

LYREの「永遠にあなたを満たすもの」の歌詞の冒頭です。

 

20年に及ぶ罪責感に苦しみ、助けを求めている中で

エスさまに出会い、

新生し、

罪の赦しを受け、

長年の罪責感からも癒された。

聖霊の内住の啓示をも受けさせてくださった。

その時は「どんなものも満たすことのできない心の中」がイエスさまの愛によって満たされた。 

でも、ふと心を覗くと、私の心の中には、まだ埋めることのできない空洞があって

時にそれは痛みを伴います。

聖霊に満たされた方が書かれたブログや書籍を読んだ時は神の愛に涙するのに

一人になると、やはり空虚感が残るのです。

 

聖霊バプテスマを受けていないから、この空洞が埋まらないのかと思っていましたが

クリスチャンであっても、「自分自身の感覚に意識を置く」なら、やはり空虚感というのが入り込んでくるそうです。

では、どうしたらこの空虚感から解放されるのか 

ヨハネ福音書16章

:29 弟子たちは言った、「今はあからさまにお話しになって、少しも比喩ではお話しになりません。

:30 あなたはすべてのことをご存じであり、だれもあなたにお尋ねする必要のないことが、今わかりました。このことによって、わたしたちはあなたが神からこられたかたであると信じます」。

:31 イエスは答えられた、「あなたがたは今信じているのか。

:32 見よ、あなたがたは散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとりだけ残す時が来るであろう。いや、すでにきている。しかし、わたしはひとりでいるのではない。父がわたしと一緒におられるのである。

:33 これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。 

人々から、そして弟子たちからさえも見捨てられるのを知りつつも「わたしはひとりでいるのではない。父がわたしと一緒におられるのである。」と言われた御子の霊によって平安と勇気を受け、保つことによって、その空虚感から解放されると知りました。

 塚本訳 ヨハネ16章

:31 イエスは(いとおしげに彼らを見やりながら)答えられた、「いま信ずるというのか。

:32 見ていなさい、みなちりぢりになって自分の家にかえり、わたしを独りぼっちにする時が来るから、いや、もう来ている。しかしわたしは独りぼっちではない、父上がいつも一しょにいてくださるのだから。

:33 これらのことを話したのは、あなた達がわたしに(しっかり)結びついていて、平安を保つことができるためである。この世ではあなた達に苦しみがある。しかし安心していなさい。わたしがすでに世に勝っている。」

御父が御子といつも一緒にいて下さったように、私にもいつも一緒に居て下さる御子の霊が内におられる。自分自身の感覚に意識を置かず、御子から目を離さないで、しっかり結びついていて平安を保っていたい。

いかに深い父の愛


How Deep The Father's Love

 

いかに深い父の愛

私達には計り知れない

父は独り子をお与えになった

哀れな私を 宝としてくださるために

 

独り子を失う 身を焦すほどの辛い悲しみ

父は顔を背ける

父が選ばれた 独り子の そのうち傷に

それは多くの子たちに栄光をもたらすため

 

そのお方を十字架に架けたのは

私の罪を背負うため

恥ずべき私 嘲る者たちに混ざって

あざ笑っている私の声を聞く

 

十字架につけたのは 私の罪

御心が成就されるまで

独り子は息絶え 私に命が与えられた

私は知らされる 終わった(完了した)と

 

私には何も誇るものはない

何の才能も、力も、知恵も

でも私はイエスキリストにあって誇る

エスの死と復活を

 

どうしてこのような報いを受けれるのか

私には答えられない

でもこれだけは確かに分かる

エスの傷が 私を贖って下さったと

 

※贖いとは

キリストの血によって身代金が支払われ(Ⅰコリント6:20,黙示録5:9)、

罪の奴隷(束縛)から解放され自由になること(Ⅰペテロ1:18-19)

律法の呪いを取り除くこと、その結果、神の子とされる(ガラテヤ3:13,4:5)

 

CCMの賛美ばかり歌ってきた私にとって上記のような賛美歌は心を打ちます。

聖書の学び会で日本語訳がスクリーンに映し出されるようになり、さらにこの曲が好きになりました。

勇気を出して!?明日Facebookで紹介してみようと思います。