ナルドの香油

誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。(エレミヤ9:24)

息を吸う毎に

Don Moen - As The Deer [with lyrics] 

鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、

神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。

私のたましいは、神を、生ける神を求めて

渇いています。

いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。

私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした。

人が一日中

「おまえの神はどこにいるのか。」と私に言う間。

私はあの事などを思い起こし、

御前に私の心を注ぎ出しています。

私があの群れといっしょに行き巡り、

喜びと感謝の声をあげて、祭りを祝う群衆とともに

神の家へとゆっくり歩いて行ったことなどを。

 

わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。

御前で思い乱れているのか。

神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。

御顔の救いを。(詩篇42:1-5) 

神よ。あなたは私の神。

私はあなたを切に求めます。

水のない、砂漠の衰え果てた地で、

私のたましいは、あなたに渇き、

私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです。

私は、あなたの力と光栄を見るために、

こうして聖所で、あなたを仰ぎ見ています。

あなたの恵みは、いのちにもまさるゆえ

私のくちびるは、あなたを賛美します。(詩篇63:1-3)
主よ、私には1秒毎にあなたが必要です。
息を吸う毎にあなたが必要です。
主ご自身を慕い求めます。
そうでなければ私は生きていく事ができません。
私は、裕福さを感じられるよう莫大な資産を持つことを欲し、次の日主に頼らなくてもすむように、何年分もの大きなたくわえを持つことを欲しました。しかし、主は決してそのようなたくわえを私に与えて下さいませんでした。その都度必要とする以上の聖潔や癒しを、私は決して持ちませんでした。主は言われました、「私の子よ、あなたは次の一息のために私のもとに来なければなりません。私はあなたをとても愛しているので、常にわたしのもとに来てもらいたいのです。もし私があなたに多く与えるなら、あなたは私なしで物事を行ない、あまり私のもとに来なくなるでしょう。あなたは毎秒私のもとに来て、毎瞬私の胸によりかからなければなりません。」
A.Bシンプソン 「主ご自身」より

 

ある姉妹の証し


アカペラ4声 讃美歌461番 主われを愛す Jesus Loves Me in Japanese

今日はBible Study Fellowship(BSF)でしたが、託児奉仕の日でした。

私と一緒にベビーの託児に入られたのは、お孫さんがおられる年配の女性でした。
ご主人の家族が全員クリスチャンなのですが、彼女は何か暗さを感じて、信仰を持つ事をずっと拒否し続けていたそうです。

去年からBSFに参加するようになり、BSFの聖書教師の女性やメンバーのみんなが明るく、希望に溢れているのを見て影響を受け、少しずつ気持ちが変えられていきました。

学びをしている中で、黙示録6章1節の「来なさい」という言葉をイエスさまから直接語りかけられ、「はい、行きます」と応答して昨年、洗礼を受けられたそうです。「頑なな心を持っていたので、信仰を持つのに40年以上かかりました」と笑いながら話してくれました。

また、99歳の母親が脳梗塞を起こした後、せん妄状態にあるのですが、そのせん妄の中で、

「わが主イエス、わが主イエス
わが主イエス、われを愛す」

と歌った後

「神さま、あなたは私を愛して下さいますか?
私はあなたを愛しています。

全能の神さま、

私に命を与えてくださった神さま」

と言われたそうです。

お母さんは5歳の時の一時期、日曜学校に通っていただけでクリスチャンではなく、その時の記憶が残ってたのか、せん妄状態であるのに主を賛美されたようです。

このような事があるので日曜学校の働きは大切だと話しておられました。

聖書の学びは出来ませんでしたが、一人一人を不思議な方法で導かれる、主の生きた証しを聴く事が出来て感謝な一日でした。

 

託児の赤ちゃん達はイエスさまの愛に満たされていて、みんな終始ご機嫌でした。

 

※お母様は日曜学校で賛美歌を歌う時に聞いたオルガンの影響で、その後、音大に進まれたというのも神さまの摂理を感じました。

セルフイメージ vs 古い人を死に定める

多くのクリスチャン・カウンセラーが、心理学によって得られた洞察を正しく用いながらも、心理学の考え方にとどまってしまうという誤ちを犯しているため、結果として多くの混乱が生じていることに気付きました。

心理学ではセルフイメージを修正することで、自分に自信が持てるようにします。

しかし、キリストは私たちの肉的な自信を葬り去ることで、私たちに唯一残されたセルフイメージが、「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(ピリピ4:13)となるようにされるのです。

セルフイメージとは、私たち自身が建て上げ、誤って頼るようになるものです。

セルフイメージは必然的に私たちを、そのイメージを守るため、またほかの人が見て褒めてくれるためという自己中心的な努力に駆り立てます。私たちはそのイメージを守り、築き上げ、建て直さなければならなくなるのです。

しかし、クリスチャンのアイデンティティは賜物として与えられるものであり、神が私たちの内に建て上げてくださるものなので、人から見られたり、認められたりする必要も、自分の力で守っていく必要もないのです。

 

クリスチャンのいやしは、壊れたものを何とかもう一度使い物になるように修復するのではなく、その壊れたものによって支配されることから私たちを解放し、壊れたものは壊れたままで、その中に、またそれを通して主の義が輝くのだということに信頼できるようにするものです。

この世の考え方では壊れたものを修理し、プライドや自信を建て直そうとします。しかし、主はこう言われます。「我々は一切の手を加えることなく直そう。その壊れたものを神の栄光を顕すために用い、その罪を知ったことから、神の御霊が我々を通してキリストの御性質の麗しさを褒め歌い、全ての人がそれを知るようになるということに、日々新たに信頼していこう。」

「あなたにすべての栄光を帰するように気を付けます」などどわざわざ言わなくても、自分がすでに罪の中に死んでいることを充分に理解すれば、当然すべての栄光は主のものとなるのです。私たちは何一つ、良いことなどしません。神がすべてを成し遂げてくださるのです。

その意味では、魂にはいやしなどあり得ません。死と再生があるのみです。

旧約聖書では魂の回復というものが語られていますが(詩篇23:3.19:7など)クリスチャンはたえずそれを、死とイエスの義による再生という意味に置き換えて捉えなければなりません。

ローマ書

6:4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。

6:5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。

6:6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。

6:7 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。

6:8 もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。 

 まさにこの神学上の転換点において、クリスチャン・カウンセラーの多くは、相談者の船を座礁させてしまっています。他人のセルフイメージを(私たちの内におられるキリストから離れたところで)建て直そうとする人は誰でも、十字架に逆らって働いていることになるからです。

ガラテヤ6:12-14の「割礼を強制する」という部分を「自分のセルフイメージを見出し、そのセルフイメージのために生きることを強いる」に置き換えて、この箇所を読み直してみてください。

 ガラテヤ書

6:12 あなたがたに「自分のセルフイメージを見出し、そのセルフイメージのために生きることを強いる」たちは、肉において外見を良くしたい人たちです。彼らはただ、キリストの十字架のために迫害を受けたくないだけなのです。

6:13 なぜなら、「セルフイメージのために生きる」人たちは、自分自身が律法を守っていません。それなのに彼らがあなたがたに「自分のセルフイメージを見出し、そのセルフイメージのために生きることを強いる」のは、あなたがたの肉を誇りたいためなのです。

6:14 しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。

 良いものも悪いものも、私たちの中に築き上げられた性格はすべてキリストにあって死に、再形成されなければなりません。聖化とは、堕落した習慣を一つ一つ取り除き、やがてはその人の性質全体が美しく輝くようになる過程を意味するのではありません。

自分自身が完全な姿に造られているどころか、実は完全に堕落しているのだということを知り、イエスにあってそのことを安心して受け入れられるようになることなのです。 

私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。(ローマ7:18)  

5:21 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(Ⅱコリント5:21)  

私たちがこのように、自分が完全に堕落した存在であることを悟るとき、私たちの砕かれた心を通して主のご性質が輝き、その栄光を現すのです。

エスの十字架での死は単なる肉体的な死ではありませんでした。イエスはあらゆる面において私たちの罪そのものになられて、心と頭、魂と肉体の全てにおいて、死を体験してくださったのです。このような完全な死の状態からイエスは私たちを、主にあって新しく造られた者として甦らせてくださるのです。ですから私たちは新しく造られた者なのです。 

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(Ⅱコリント5:17)

それでもまだ危険性が残ります。それは、イエスという光輝く新しい塗装の下に錆のように存在する自己の堕落した性質が、私たちが主に背を向けるやいなや、再び自己主張しようと待ち構えていることを忘れてしまう危険です。

私たちは結局のところ、自分がそこそこ良い人間であると思いたいのです。「確かに悪いことも多少はしてきた。しかし、その代価はイエスによって支払われたのだから、これからは神によって本来造られた『いい人』になれる」と考えているのです。

けれども皆さん、そうではありません。表面の皮を剥がしたら中から良いものが出てくるのではなく、全体が堕落しているのです。ですから、しなくてはならないことは、「古い人をその行いと一緒に脱ぎ捨てて、新しい人を着る」(コロサイ3)ことです。身にまとうことによって、私たちは新しい性質を得るのです。

 

教会にこれまで欠けていたのは、日々キリストにあって死に、再生することでした。

この死と再生がもうすでに成し遂げられたと私たちは勝手に歌ってきましたが、本当はまだその過程が始まったばかりなのです。

救いは私たちの行いによるのではなく、神からの無償の賜物である。(エペソ2:8-9)と書いた使徒が、別のところでは「恐れおののいて自分の救いを達成してください」(ピリピ2:12)と書いています。

エスの血潮は罪を洗い清め、十字架は贖い、義とし、罪の代価を払います。

そして復活は回復をもたらし、新しい命を与えます。

しかし、私たち自身が日々自分の十字架を背負うことによってのみ、古い人を死に定めるという必要不可欠なことを、継続して行っていくことが出来るのです。

この継続的な聖化の過程が日々十分に起こってこそ、一人一人のクリスチャンとしても、またキリストのからだ全体としても、成熟した信仰の人が現れるのです。(エペソ4:16)

【内なる人の変革 ジョン&ポーラサンフォード】

 

以上、長い引用になりましたが、大事な事はセルフイメージを建て上げることではなく

【私たち自身が日々自分の十字架を背負うことによってのみ、古い人を死に定めるという必要不可欠なことを、継続して行っていくことが出来るのです。】

の部分だと思います。

 

聖霊は私たちの古い人(古い生き方、古い考え方、偽り、罪)を日々、色々な状況を通して示してくださいます。

それらは既に十字架上で「死刑になったのだ」と認識し祈る時に、解放され、新しいいのちに生きていけるのだと最近教えて頂きました。

私たちクリスチャン一人一人が、また教会の群れが成熟した信仰の人になるためには、この過程を日々通る事が必須であると思います。

「主の祈り」で一番大切な事

 

出エジプト記  

6:2 神はモーセに告げて仰せられた。「わたしは主である。

6:3 わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに、全能の神として現われたが、主という名では、わたしを彼らに知らせなかった。

6:4 またわたしは、カナンの地、すなわち彼らがとどまった在住の地を彼らに与えるという契約を彼らに立てた。

6:5 今わたしは、エジプトが奴隷としているイスラエル人の嘆きを聞いて、わたしの契約を思い起こした。

6:6 それゆえ、イスラエル人に言え。わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出し、労役から救い出す。伸ばした腕と大いなるさばきとによってあなたがたを贖う。

6:7 わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。あなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であり、あなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出す者であることを知るようになる。

6:8 わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓ったその地に、あなたがたを連れて行き、それをあなたがたの所有として与える。わたしは主である。」 

4節で、神はアブラハム達と契約を結ばれたことを確認し、5節では、神は契約を思い起こされたと言明します。

続く6節から8節でエホバ(YHWH)なる神が語られた言葉を注意深く見ると、「わたしは主(YHWH)である。」という言葉ではじまり、それで終わっています。

ヘブライ語もそうなのです。

『はじめ』と『終わり』に契約者の名前が来る場合、その中にある文章は『契約文』と読むのが当時の文書の習慣でした。

すると6-8節はエホバ(YHWH)の契約文です。

エホバ(YHWH)という言葉の概念は、イスラエルの民が約束の地で神の民として生きるという契約と深く結びついているのです。 

もしエホバ(YHWH)というタイトルがイスラエルの民との契約に結びつけられた神のお名前であるとするなら、その契約に与っているわけでもない私たちが、そのタイトルを使うことはふさわしいのでしょうか?

むしろ、新しい契約にふさわし名前を使用すべきではないでしょうか。 

キリストの贖いを受けて、新しい契約に与った人々は、イエスと弟子たちが使われた『父』『神』『主』という表現を祈りに使えばよいのではないでしょうか。 

『主の祈り』を確認します。 

マタイの福音書

6:9 だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。 

6:10 御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

6:11 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。

6:12 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。

6:13 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕

6:14 もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。

6:15 しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。  

 この祈りはイエスさまが、弟子達にどのように祈ったらよいかを教えてくださったものです。ここでイエスさまは『エホバ(YHWH)よ。』とは言っていないのです。

『天にいます私たちの父よ』と言っています。

エスさまは弟子たちに、『神との新しい関係』をお教えになりたかったのです。

旧約聖書の時代、神を父として親しく呼ぶことはできませんでした。

イスラエルの民が民族として神を父とみなしている例はいくつかあげることはできますが、個人として神を父と呼びかけることは許されていませんでした。

ところがキリストは、神を父と呼ぶことができる関係に人々を招き入れて下さったのです!!

私は『主の祈り』で一番大切な要素、イエスさまが一番伝えたかったことは、『私が十字架に架かり復活するので、あなたがたは、神を父と呼ぶ事ができる関係になるんだよ』と言うことだったのではないかと思います。 

 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。(ローマ8:15) 

 

以下は私の現在の葛藤です。

「主の祈り」をベースにキリスト教会のフォーマルな祈りは

「天の父なる神さま」で始まり、祈りの内容があり、「イエスキリストの名によって祈ります。アーメン」で閉じると思います。

イエス・キリストの名によって」という言葉は本当に大切で、罪ある人間は本来、義なる聖い神と交わることができない者であったのに、イエスさまの十字架の贖いによって神と和解し関係が回復した為、祈りを通して交わる事ができるようになったからです。

けれど現段階の私はどちらからと言うと、「イエスさま!」「主(イエス)よ」と祈る事が多いのです。

勿論、主なる神は三位一体なので、父なる神に祈っても、イエスさまに祈っても三位一体の神に祈っているのだと思います。

でも、もし「主の祈り」を教えて下さったイエスさまの一番の目的が、

「神を父と呼ぶことができる関係に人々を招き入れて下さった。」という事なら、フォーマルな祈りとして形式的に「天の父なる神さま」と祈る事に固執するのは違うのではないか・・・と思い始めました。

今朝は、イエスさまの昇天後、弟子達は誰に祈っているのかを使徒の働きを読んで確認しています。

父に祈っている箇所もありますが、イエスさまに祈っている箇所もあり、祈りの応答として直接言葉を通して答えておられるのは、今の段階ではイエスさまなのです。

ユダヤ教の人も、イスラム教の人もエホバの証人もヤーウエーなる、エホバなる神に祈っています。

けれど私たちクリスチャンはイエスさまの贖いにより与えられた聖霊によって、イエスさまのご人格を通した交わりの中で、祈ることが決定的な違いなのではないかとも思っています。 

神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。(Ⅰコリント1:9)

異言での祈りはこのような形式的な祈りや考え方から解放されて祈れるので素晴らしい事だと思います。

 

あなたは、わたしをだれだと言いますか

マタイの福音書

16:13 さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々は人の子をだれだと言っていますか。」

16:14 彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」

16:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」

16:16 シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」

16:17 するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。

16:18 ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。

16:19 わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」

16:20 そのとき、イエスは、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と弟子たちを戒められた。

 以前、エホバの証人の方と一緒に聖書を読んでお話した時期がありましたが、この聖句の中の 

「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」 

という質問は、いずれ信仰者一人一人が御子の前に立つ時に質問される、とても重要な意味を持つ質問だと実感しました。

異端と言われる宗教はキリストの「神性」を認めていません。

聖書には「神の子」と書いてあるのであって、「神」ではないと言います。

もしキリストが「神」であるなら、「父なる神」と「子なる神」がいて神がお二人おられる事になり多神教になってしまうからです。

けれど聖書は父子聖霊でお一人の神だと書いてあります。そしてその事を霊的に知ることができるとしたら、それは 

16:17 するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。 

神からの啓示なのです。 

カトリックは 

16:18 ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。 

の箇所から、ペテロ(岩)の上に教会を建ててしまい、教皇を中心とする教会制度となっています。

カトリック教会では伝統的に教皇の地位と権威が聖書に由来するものであるとしている。特に重視されるのはマタイによる福音書の16:18-19のイエスのペトロに対する言葉である。(ウイキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E7%9A%87

 

けれど、ここでイエスさまがおっしゃっている

「わたしはこの『岩』の上にわたしの教会を建てます」の「岩」とはシモン・ペテロの信仰告白の言葉 

「あなたは、生ける神の御子キリストです。」 

という言葉なのです。

「生ける神」つまりキリストは「永遠から永遠に生きておられる神性を持つ神の御子」であるという事です。

クリスチャンがキリストを「神の御子」という時は「神性を持つ神」であることを意味しています。

教会はこの信仰告白の言葉である「岩」を土台としたものでなければなりません。

全ての異端はこの「岩」がありません。

 

そして当時、ユダヤ人達は旧約聖書を読む際に、神の名(YHWH)をヘブル語で「アドナイ」、ギリシャ語で「キュリオス」と読み替えていましたが、ペテロ達、十二弟子達が以下の御言葉にあるように

「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」(ローマ10:9)

「イエスを主(キュリオス)と告白する」という事は、「キリストは神である」と告白する、命がけの告白だったのです。その為にペテロ達はユダヤ教から迫害を受け殉教していったのです。 

新約聖書の書簡後半は異端との戦いが随所に垣間見られます。 

ヨハネ

2:22 偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう。御父と御子を否認する者、それが反キリストです。

2:23 だれでも御子を否認する者は、御父を持たず、御子を告白する者は、御父をも持っているのです。 

4:15 だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。 

「あなたは、わたしをだれだと言いますか」 

御子との「交わり」はこの「岩」の啓示を受けた時に始まるのだと思います。  

 

※ イエスは主の「主」って? - ナルドの香油 

※紀元前3世紀初めごろから翻訳の始まった『七十人訳聖書』では、原語のヘブライ語での「יהוהヤハウェ)」が置き換えられ、ほとんどの箇所で「主」を意味する「Κύριος(キュリオス)」と訳されている。

 このことから、この頃にはこの名がアドナイと読み替えられていたのであり、バビロン捕囚以後の300年ほどの間にそのまま発音することが禁忌とされるようになったと考えられる(ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%A7

 

 

上にあるもの

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★今日のみ言葉★
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「上にあるもの」

前回のみ言葉を覚えていますか。
上にあるものを求めなさい、というみ言葉でした。
では、上にあるものとは何でしょうか。
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ヤコブ 3:17
しかし上からの知恵は、第一に清く、次に平和、寛容、温順であり、あわれみと良い実とに満ち、かたより見ず、偽りがない。(口語訳)

上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。
憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。(新共同訳)

But the wisdom that is from above is first pure, then peaceable, gentle, willing to yield, full of mercy and good fruits, without partiality and without hypocrisy.(NKJV)
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上にあるものが何であるかが分かりますね。
ここでは知恵と言われています。
知恵と言えば、頭の働きのようですが、上からの知恵は、どちらかと言えば、心に触れるものです。
平和(平安)、寛容、温順、あわれみをすでに経験しておられる方は、それは上からの知恵であると受け止めていますか。
そこには偏見や偽善的なものはありません。
聖書の中で、「新しく生まれる」という言葉がありますが、あそこは「上から生まれる」とも訳されているところです。
この地上のもの以上に上にあるものを求める、その人は上から生まれた人だからです。
どう思いますか。

浜崎英一

待っていて

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★今日のみ言葉★
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「待っていて」

主なる神を信じるあなたやわたしは、主を待ち望む者たちです。
ところが、待っているのはわたしたちだけではありません。
誰が待っているのでしょうか。
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イザヤ 30:18
それゆえ、主は待っていて、あなたがたに恵を施される。
それゆえ、主は立ちあがって、あなたがたをあわれまれる。
主は公平の神でいらせられる。
すべて主を待ち望む者はさいわいである。(口語訳)
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主は何を待っておられるのでしょうか。
別に待たないで、何でもご自分の思うことをやって下さってよいと思うのですが。
主が待っておられるのは、信仰をもってご自身を求める人です。
ヘブル 11:6
信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。
神に近づく者は、神がおられることと、神ご自身を求める者には報いてくださることを信じなければならないのです。(私訳)

何かをではなく、神ご自身を求める人、その人はまた、主を待ち望む人です。

浜崎英一