ナルドの香油

あなたは私の隠れ場(詩篇32:7)

このブログについて

このブログを始めたきっかけは、

Kinukoさんのブログと

巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

Kinukoさんを通して知った

ミヤサカさんのブログ

an east window

に「引用スター☆彡」を付けたくて、その為には、はてなブログのブログ開設が必要だったことが理由でした。

以前、エイキサイトブログで同じように書籍からの引用と日記のようなブログを開設していましたが、当時は精神的に不安定でかなりの記事を書いていましたが、精神的に堕ちている時にブログを消去してしまいました。

折角、新しくブログを開設したのだから、その時のものを再度書こうと思って今日まで来ました。いつしか記事数は100を超えていました。

ここで一度、ブログ更新をやめようと思います。(もう書くものが無くなってしまいました(^^;))

ツイッターの方で少し、つぶやくかもしれませんが、訪問し、読んで下さり本当に感謝しています。

皆さんの上に主の祝福と愛が豊かに注がれますように☆彡

彼の打ち傷によって、私たちはいやされた

 イザヤ書61章

:1 神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、

:2 主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、

:3 シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現わす主の植木と呼ばれよう。

 20年間、罪責感という牢屋に入れられた囚人であった私を、主は釈放、解放して下さった。イザヤ61章の御言葉を今も日夜休む事なく行っておられる主の働きを共に行っていきたいと思っています。 

「貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた」 

そのように祈っていたので、主は心の傷ついた方を私の所に送り続けて下さっている。その方達に共通するのは「両親の愛」を受け取る事が出来なかった事、それによる自尊心の欠如、不完全な両親による育て方によって沢山の傷も受けて苦しんでいます。

 イザヤ書53章

:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。

:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」の御言葉は地に落ちてしまい、現実のものになっていない方が多い気がしています。

キリストの十字架と復活を通して与えられているはずの、癒しと勝利を受け取る事が出来ていないのです。 

そういう私自身、段階的に主は癒しを進めて下さって来ましたが、一番大切な「神の愛」を心の底から実感として受け取る事が出来ずに今年まで苦しんでいました。

「MIKUさんは神さまから愛されているって思う?」と心の傷ついた友人に聞かれて、実は私も「私の目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ43:4)の御言葉を自分の事としては受け取れていないと伝え、二人で「神の愛が分かるようにしてください」と祈ったのでした。

主はその祈りを聞いて下さって、2つの事を教えてくださいました。

一つは今年、ローマ6:3-6,ガラテヤ3:20,コロサイ2:12にあるように、私の古い人は良い面も悪い面も全て十字架に付けられてイエスさまと共に死んだのだという事が分かってはいたのですが、私の全ては十字架に釘付けられるほど悪いとしたら、どこに主から愛される要素があるのだろう?と分からなくなってしまったのです。それに対する答えは 

視点を変えて考えると、主なる神は罪のゆえに本来神を愛することができなかった私たちの心のうちに、『アバ父よ』と叫ぶ御子の霊を与えて下さったのです。それはまさに純粋な霊による愛であり、また信仰の本質であり、人間の行為や個人の特性によらないもの。だからこそ、私たちはいつでも、どんな状況においても父なる神を呼び求めることができ、また父なる神の変わらない愛に信頼することができる。御子が十字架の上で見捨てられた状態にいても「父よ」と叫んだ絶対的信頼の霊が私たちの心に与えられているのです。 

というものでした。この事を知った時に、数年前に「聖霊の内住」の啓示を受け、既に三位一体の神と交わる事ができている事自体が神に愛されている事なのだと分かったのでした。

2つ目は、それでもまだ感じる空虚感のせいで「神の愛」が分かっていないのかと思っていましたが、クリスチャンであっても、「自分自身の感覚に意識を置く」なら、やはり空虚感というのが入り込んでくる事。人々から、そして弟子たちからさえも見捨てられるのを知りつつも「わたしはひとりでいるのではない。父がわたしと一緒におられるのである。」と言われた御子の霊によって平安と勇気を受け、保つことによって、その空虚感から解放されると知りました。

そして「信仰」という「パイプ」をいつも「キリストの十字架の愛」に繋ぐ事によって、「神の愛」がいつでも川のように流れてくるのだという事も分かりました。

『彼の打ち傷によって、私たちはいやされた』 全ての癒しは「キリストの十字架の愛」を受け取る事なのだと思います。そして個人の信仰によって癒しと解放は必ず起こり、たとえ現在それが実現していなくても最後まで信じるように私たちには求められていて、それは信仰者としての責任でもあると知り、心から同意しました。

 ローマ書8章 (信ずる者の勝利の凱歌

:35 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。

:36 「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。

:37 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

:38 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、

:39 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。 

 エペソ書3章 (神に満つるものの満たんことを)

:14 こういうわけで、私はひざをかがめて、

:15 天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。

:16 どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。

:17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、

:18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、

:19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。 

トランスフォーメーションの原則

聖書には、弟子たちはペンテコステを経験する前、疑いと落胆でちりぢりになって逃げたと書かれています。
 
ところが、彼らはペンテコステの日には、一つの場所で一つの心で祈っていたとあります。どうしてそんなことが起こったのでしょうか。
 
使徒の働き1:3には「イエスは・・・数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒達に示された」とあります。
弟子達は主イエスが復活されたことを理解したのです。
だから弟子たちは主イエスを拝し、大きな喜びを持ってエルサレムに帰っていきました。
ルカは「いつも宮にいて神をほめたたえていた」と記述しています。
 
ところが今の私たちは「いつも宮にいて神をほめたたえて」いませんよね?
 
これには二つの理由があります。
一つは、私たちは驚くべき奇跡にまだ遭遇していないからです。
二つ目は、私たちは特に待っているものがないからです。
だから毎週毎週「宗教的行事」に出かける人になっているのです。
 
復活の後、弟子たちは教義とか信条などという律法的なものから解放されていました。
伝統も組織もありませんでした。
だから、ペンテコステの場所に集まって一つ心で待つことができたのです。
 
今日、教会に人々か来ないのは、神が生きていることを知らされていないからです。
使徒の働き4章33節には「使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった」と書かれています。
彼らの存在自体が復活の証拠となっていったのです。
 
しかし今日、人々は私たちを復活の証拠だとは見ていません。
人々は私たちが単なる宗教的ないい人ということでは教会に来てくれません。
自分たちと違うものを持っているからこそ、惹きつけられるのです。
 
彼らは、備えられたものが欲しいのではなく、驚きが欲しいのです。
神の臨在がはっきりと感じられる場所に行きたいのです。
 
私が訪れた教会には、霧のように神の臨在が見える場所もありました。
教会に入ると「神の臨在を左の肩に感じることができる」ような、想像もできないほどの神の臨在です。
他のことはどうでもよくなって、すべての人の目が大きく開かれ、誰も次に起こることを予測できません。
人々が本能的に求めていることは、予想もできないほど素晴らしいことです。
 
そのような教会の礼拝では、髪の毛が逆立ってしまいます。
別次元の神の臨在があります。
 
私はトランスフォーメーションが起こっている各地を訪れ、そこで人々の態度や行動を観察した結果、そこに一つのパターンがあることを知りました。
非常に単純な公式です。
 
それは、「何かに期待を持っているから、喜んで何かを捨てる」ということです。
彼らは喜んで自分の優先順位を捨てたのです。
主の道を備えるために悔い改め、祈り、断食し、互いに赦しあい、一つになって待っていたのです。
 
あるとき、私の妻がいつものようにリバイバルを下さいと祈っていました。
 
「神よ、来て下さい。来てください」と。
すると神は語られました。
 
「あなたは、私をただ便利な者として呼んでいるのですか?
それとも愛すべき存在として呼んでいるのですか?」。
 
私たちはリバイバルを求めてお願いをしますが、その仕方が最初から間違っていることがあります。
 
20世紀半ばに、スコットランドのヘブリティという場所ですごいリバイバルが起こりました。
それは90代の二人の老夫婦が家で祈っていたところから始まりました。
 
婦人は盲目で、ご主人は足が衰えていて、日曜日の朝に教会へ行くことのできない人たちでした。
しかし彼らの心には、神の臨在へのものすごい飢え渇きがあったのです。
 
老夫婦は牧師を家に呼んで、
「神さまは、この町にリバイバルを起こそうとされていますよ。しかし、人々は準備がなく、飢え渇きがありません。
私たちは、教会の牧師であるあなたと長老たちが祈るならそれが起こると信じています。」と言いました。
 
この牧師たちは二人の提案を受け入れ、日常的な仕事をすべて捨てて祈り始めました。
細かく計画されていた祈祷会を開いたのではなく、朝も昼も夜も、神が来るまでは絶対に祈りを止めないという姿勢で祈りました。
 
「神よ、人々を刺激して、あなたの臨在を求める飢え渇きを与えてください」と。
 
当時、その地の人々は8時になると床に就くのですが、この牧師たちが祈って待ち続けると、町の明かりが9時まで灯っているようになりました。
そのうち10時まで、そして、深夜にまで、さらに午前になるまで明かりが灯るようになりました。
最終的に、一晩中明かりが灯るようになりました。
人々の心に飢え渇きが起こったのです。
 
そして想像できないほど濃厚な神の臨在が溢れ出しました。
人が道路の真ん中で突然自転車を降りて、ひざまずいて手を挙げて、主に憐れみを叫び求め始めるのです。
 
漁をしている最中に神の臨在が突然降ってきた漁師たちは、漁を止めて網を捨てて主に叫び求め始めました。
 
小麦を刈り取っていた農家の人は、鎌や鋤を捨てて主に叫び求め始めました。
 
酒場でビールやウイスキーを飲んでいた人も、ひざまづいて主に叫びました。
 
特別な集会もラジオ宣伝もトラクト配布もないのに、数週間の間にこの小さな町にどんどん人々が集まってきました。
 
ただ神の臨在に引き寄せられて集まってきたのです。
 
私たちが、本当に飢え渇きがあるかということが問題なのです。
 
この日本の地にトランスフォーメーションリバイバルが起こると、私は大いに信じています。
私は宗教的なものには、もはや興味がありません。
 
始まりは、皆さんの祈りからです。
 
「神さま、私を刺激してあなたへの飢え渇きを増して下さい」と。
 
私たちは、神によって飢え渇きをもっと大きくしてもらう必要があります。
すべてのトランスフォーメーションの実例の中で、初めに祈り始めた人数は
最大でもたったの10人、多くの場合は6人以下です。
 
トランスフォーメーションへの道は簡単ではありませんが、複雑でもありません。
私には、皆さんがそれを起こすことができると100%の確信があります。
 
ジョージ・オーティスJr
 
 

伝道の十段階

今年不思議なご縁で主が出会わせて下さった、元、中華料理店の料理長の方から教えて頂いた「伝道の十段階」を覚書として残します。 

1.迫害

2.反対

3.意見なし(興味なし・無宗教

4.興味あり

5.好感あり

6.信じたいと願う

7.集会に参加する

8.洗礼を受ける

9.教会員

10 . 一生委ねる

迫害の中には、未信者の夫に寝ている間に髪を燃やされたり、指を切られた女性もいると聞いて驚きました。

聖書の話を持ち出して話せるのは4の段階にある時ではないかと話しておられました。

 

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もし いつか

『もし いつか』 浅田 志津子 

もし いつか
母が歩けなくなったら
天気のいい日は 車椅子を押して
あの用水路沿いの小道を
二人でのんびり散歩しよう
水路沿いに咲きみだれる
季節の花を楽しんだり
畑の無人野菜直売所で
採れたてのトマトを買ったり

もし いつか
母が少しぼんやりしだして
もの忘れが ひどくなってきたら
きつい言葉で 追いつめたりせずに
母が自ら 思い出せるようにしよう
メモをとるよう さりげなく勧めたり
「ガス、消した?」と書いた紙を
あちこちの壁に 貼っておいたり

もし いつか
母が私を「おかあさん」と呼んだら
私は うつむいて唇をかんだり
母から 目をそらしたりしない
深呼吸をひとつしてから
「なあに」と普通に笑いかける

居間で針仕事をしながら
とりとめのないおしゃべりをしたり
ぬりえに励むあどけない母の
目にかかる髪をピンでとめたり
散歩に出たまま戻らぬ母を
探してようやく見つけたときは
激しく叱ったその後で
抱きあって 二人でしばらく泣こう

そして夕焼けのなか 手をつないで
歌いながら 家へと帰る
母と 手をつないでさえいれば
よかった頃の 私に帰る

 

浅田 志津子
教育、福祉関係のライターとして、認知症の親と共に生きる人々を取材する中で生まれた一編
「私自身の、老いた母への優しさに欠ける態度を悔い改める思いもこめて書きました」

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

私は昨年、介護の勉強をし、8日間有料老人ホームに研修に行った経験があるのですが、そんな私の心の琴線に触れる上記の詩に出会いました。

学校の講師の中に、認知症のお母様を介護した経験を持つ先生がおられました。

当時は「認知症」や「介護」の情報がなく、お母様の徘徊のために近所を探し回り、子育ての時期とも重なっていたので先生の重圧はものすごいもので、市役所に相談する窓口があると知り藁をもすがる気持ちで訪問し、現状を吐露すると涙が止まらなかったと言っていました。

先生はお母様を見送った後、介護の勉強をして、母親にしてあげれなかった事を他の方々にしてあげたいと訪問介護や老人福祉施設で働いていました。先生の現場での体験談を聴くのがとても為になりました。
私もいつか資格を活かすと共に、自分の母を介護する時が来ると思います。

その時には、この詩の著書のような気持ちで接したいと思います。
最後の節の「母と手をつないでさえいればよかった頃の 私に帰る」・・・

母に守られていた幼い頃を思い出します。 

↓絵はご主人の作品のようです。

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銀河鉄道の夜 イエス・キリスト

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一昨日は両親が遊びに来ました。

父は地方のコンサートホールの企画に携わっていますが、先日、名取裕子さんによる宮沢賢治銀河鉄道の夜」の朗読を開催したようです。

私は「銀河鉄道の夜」は読んだ事がないのですが、父から内容を少し聞いたところによると、主人公のジョバンニをいじめていたザネリが川に落ちたのを、カンパネルラは救い、自らいのちを落としてしまうのですね。イエス・キリストが全人類の身代わりに十字架に架かって死んで下さった事を表している作品のように思いました。

この作品の中には「ハレルヤ コーラス」や「賛美歌320番(主よ みもとにちかづかん、英: "Nearer, My God, to Thee")」交響曲「新世界」など有名な曲名も書かれています。

朗読後には宮沢香帆さんという方がバイオリンで「星めぐりの歌」(宮沢賢治作詞作曲)をお母さんのピアノ伴奏と共に演奏して下さったそうです。

宮沢香帆さんのお父さん、宮澤和樹さんは「宮沢賢治記念館」の館長で、お祖父さんが宮沢賢治の弟です。香帆さんが使用したバイオリンは120年前に宮沢賢治が使用していた楽器だそうです。

クリスチャン界では有名かもしれませんが、宮沢賢治が書いた「雨にもまけず」のモデルは斉藤宗次朗さんというクリスチャンなので、両親にこちらの記事をコピーして読んでもらいました。 

雨にもまけず  宮沢 賢治

雨にもまけず
風にもまけず
雪にも夏の暑さにもまけぬ
丈夫なからだをもち
欲はなく
決して怒らず
いつもしずかにわらっている
一日に玄米四合と
味噌と少しの野菜をたべ
あらゆることを
じぶんをかんじょうに入れずに
よくみききしわかり
そしてわすれず
野原の松の林の蔭の
小さな萓ぶきの小屋にいて
東に病気のこどもあれば
行って看病してやり
西につかれた母あれば
行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば
行ってこわがらなくてもいいといい
北にけんかやそしょうがあれば
つまらないからやめろといい
ひでりのときはなみだをながし
さむさのなつはオロオロあるき
みんなにデクノボーとよばれ
ほめられもせず
くにもされず
そういうものに
わたしはなりたい 

以下、雨にも負けず ( その他文学 ) - Cafe Grace - Yahoo!ブログ

から転載させて頂きます。  

実は、この詩には、モデルがいたそうです。  それは、斉藤宗次朗という人です。  以下、許可をいただき「ベテスダ柏」のホームページ(http://plaza.rakuten.co.jp/bethesda/5006)からの転載です。 ***********

 彼は岩手県の花巻で、禅宗の寺の三男として生まれました。  15歳の時に、母の甥にあたる人の養子となります。成長した彼は小学校の先生となり、ふとしたきっかけで聖書を読むようになり、洗礼を受けてクリスチャンとなりました。  しかし、当時はキリスト教がまだ「ヤソ教」「国賊」と呼ばれていた時代で、彼が洗礼を受けたその日から彼に対する迫害が強くなり、親からは勘当されてしまいます。  町を歩いていても、「ヤソ,ヤソ!」と嘲られ、何度も石を投げつけられます。  それでも彼は神を信じた喜びに溢れて、信仰を貫いていきました。  しかし、いわれのない中傷が相次いで、遂に彼は小学校の教師を辞めなければならない羽目になりました。それだけではありません。  迫害は家族にまで及んできます。  長女の愛ちゃんはある日、ヤソの子供と言われて腹を蹴られ、腹膜炎を起こして、何日かの後にわずか9歳という若さで亡くなります。  教師の職を追われた彼は、新聞配達をしながら生計を立て、毎朝3時に起き、夜9時まで働くという厳しい生活を20年間続けてゆきます。  彼は朝の仕事が終わる頃、雪が積もると小学校への通路の雪かきをして道をつくります。  小さい子供を見ると、だっこして校門まで走ります。  彼は風の日も、雨の日も、雪の日も、休む事なく、地域の人々の為に働き続けます。  自分の子供を蹴って死なせた子供達の為に・・。  新聞配達の帰りには、病人を見舞い、励まし、慰めます。  やがて、彼は住みなれた故郷・花巻を離れ、東京に移り住む日がやって来ました。  花巻の地を離れるその日、「誰も見送りに来てくれる者はいないだろう」と思って、駅に行ったところ、そこには、町長をはじめ、町の権力者たち、学校の教師、神社の神主、お寺の僧侶、そのほか町中の人達が、たくさん見送りに来てくれていたのです。  それは彼が日頃からしていた事を皆は見ていたのです。   その中の一人に宮沢賢治がいました。宮沢賢治法華経日蓮宗の信者でした。斉藤宗次朗が東京駅に着いて最初に手紙をもらったのが、宮沢賢治でした。  その5年後に、宮沢賢治が有名な「雨にも負けず、風にも負けず」といいう詩を作ったのです。 とすると、斉藤宗次朗さんという人が気になります。まるでキリストのような人だったのでしょう。

***************************  

「賛美歌320番(主よ みもとにちかづかん、英: "Nearer, My God, to Thee")」

星めぐりの歌

 

あかいめだまのさそり

ひろげた鷲のつばさ

あをいめだまの小いぬ、

ひかりのへびのとぐろ。

オリオンは高くうたひ

つゆとしもとをおとす、

アンドロメダのくもは

さかなのくちのかたち。

大ぐまのあしをきたに

五つのばしたところ。

小熊のひたいのうへは

そらのめぐりのめあて。

人につまずくとき

【 サタンの最も巧妙で、水面下に隠れた罠は、すべてのクリスチャンが直面するもの、つまり『人につまずく』ことです。実際、つまずきそのものは、もしそれが罠にとどまっている段階なら致命的とは言えません。しかし、もしそれを拾い上げ、使い、そして心の中で養い続けるなら、私達をつまずかせるのです。つまずいた人は傷、怒り、憤り、嫉妬、復讐心、争い、苦々しさ、憎しみ、ねたみなどの実を実らせていきます。

人がつまずきを拾い上げると、その結果として、侮辱、攻撃、痛み、分派、分裂、人間関係の崩壊、裏切り、信仰の後退などが起こってきます。

多くの場合、つまずいた人たちは、自分が罠に掛かっていることに気付かないままでいます。そういう人達は、人によってもたらされた悪に自分の神経が集中しているので、自分の状態に気づいていないのです。彼らは「否定」という真理状態にあります。敵が用いる最も効果的な方法は、私たちが自分自身に焦点を当てるようにさせることです。

つまずきから自由であり続けることが、すべてのクリスチャンにとって本質的に重要なことです。なぜなら、イエスが言われたように、生きている限り、つまずきに会わないことは不可能だからです。】(ジョン・ビビア 人につまずくとき P12-13)

ルカ17章

:1 イエスは弟子たちにこう言われた。「つまずきが起こるのは避けられない。だが、つまずきを起こさせる者は、忌まわしいものです。

:2 この小さい者たちのひとりに、つまずきを与えるようであったら、そんな者は石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。

:3 気をつけていなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。

:4 かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、『悔い改めます。』と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」

「人につまずく」という、つまずきが起こるのは避けられないとイエスさまは言っています。そして、「つまずきを起こさせる者は、忌まわしい」とも言っているので、その点にも注意を払わなければなりません。

その後、すぐに、「もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒め、悔い改めれば、赦してやりなさい。」と言っておられますが、これは相手の為ではなく、自分自身の為なのだと上記を読んで思いました。いつまでも人から受けた「つまずき」を拾い上げ、持っているなら、傷、怒り、憤り、嫉妬、復讐心、争い、苦々しさ、憎しみ、ねたみなどの実を実らせていき、人間関係を破壊、そして神との関係にも影響し、神の愛と臨在を受け取れない状態になってしまうのです。

今日、指導者たちの間に誤りを見つけたり、人につまずいて、あまりに簡単に人々が教会を去り、また自分達のビジョンや例えば預言的な奉仕が受け入れてもらえないからと教会から教会へと渡り歩いています。もし問題に直面しないままなら、私達の心は「つまずいた」ままです。

教会を去ることが問題の解決にはなりません。教会を去る時は

まことにあなたは喜びをもって出て行き、安らかに導かれていく。(イザヤ55:12) 

 であって欲しいと主はジョン・ビビアに語られました。(勿論、カルト化した教会や福音の真理から外れてしまっている教会の場合は痛みを持って出る事になり、その限りではありません。)

【どこの教会に行くべきかを選ぶのは、あなたではないのです。聖書は「神は、自分たちの望む通りに、キリストの体の中にそれぞれの器官を備えてくださった」とは言っていないのです。そうではなく、 

「しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。」(Ⅰコリント12:18) 

もしあなたが、神の望んでおられる場所にいたいなら、悪魔がそこからあなたを引き出そうとして人間関係でつまずくようにするということを、よく覚えていてください。悪魔は、神が植えられた場所から人々を根こそぎ抜いてしまおうとします。もしあなたがそこからいなくなれば、それは悪魔の成功を意味します。もし譲歩しなければ、あなたは悪魔の計画を台無しにするのです。】(P85)