ナルドの香油

あなたは私の隠れ場(詩篇32:7)

「ひとりの医師の最悪の悪夢の中での光」

イタリア、ロンバルディア州の病院に勤務する
38歳のジュリアン・アーバン医師の手記

「ひとりの医師の最悪の悪夢の中での光」

最も暗い悪夢の中で、私が想像していないようなことが起こりました。
それは過去3週間にイタリアの私たちの病院で起こっていることをこの目で見、経験したことです。
悪夢が流れ、川はどんどん大きくなります。最初は数人の患者が来て、数十人、そして数百人が来ました。
今では、私たちはもはや医師ではなく、誰が生きるべきか、誰が死ぬために家に送られるべきかを仕分けするだけの人になりました。
これらの患者さんたちは、全員、その生涯かけて、イタリアでの健康保険料を払って来たにも関わらずです。

2週間前まで、同僚と私は無神論者でした。それは医者として普通のことでした。科学の領域に神の存在は必要ないと教えられて来たからです。
私自身教会に通う両親を笑っていました。

9日前、75歳の牧師が病院に入院してきました。親切な人で、彼には深刻な呼吸障害がありました。
彼は聖書を持って来て、亡くなって行く人々の手を握り、その人たちに聖書を読んであげました。
彼が聖書を読むのを聞いて、私たちの心が触れられました。
我々医師たちはみな疲れ果て、絶望していました。精神的にも肉体的にも限界を超えていました。
時間がある時、私たちも、彼が読む聖書の言葉に耳を傾けました。

私たちはもう限界を超えています。
自分たちにできることはもはやなく、人々は次々と死んでいき、同僚も二人が亡くなり、他のものも感染しています。

ようやく、私たちは、神に助けを求めなければいけないということに気づきました。
数分の時間を見つけられる時、私たちは、神の憐れみを求めて祈っています。
互いに話して驚くことは、少し前まで全くの無神論だった自分たちが、今は日々主の平安を求め病気の人々を助けることができるように医療行為を続ける力を、助けを与えてくださいと主に祈っているのです。

昨日、あの75歳の牧師が召されました。
3週間で120人の人々の死を見ましたがこの方の死には打ちのめされました。
この方は、ご自分の大変な身体状況にも関わらず、周囲の大変な状況にも関わらず
希望を失っていた私たちに平安をもたらしてくれました。
このまま状況が好転しなければ私たちも彼の後を追うことになるでしょう。

私は家には6日間帰っていません。
いつ食事をしたかも覚えていません。
自分には何の力もないと感じています。

信仰告白について


家族や友人に福音を伝えた後、様子を見て、信仰告白に導くという事をずっとして来ました。


なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。 」(ローマ10:9-10)

ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。 」(Ⅰコリント12:3)

と御言葉にあるからです。
聖霊によらなければ、「イエスは主です」と告白できないはずだからというのもあります。

けれど、実際は信仰告白をしても、新生していない場合がある事も肌で感じていました。

よく家族が死の瀬戸際にいる時に信仰告白に導いて、告白したから救われた!!と喜んでいるケースを見受けますが、最近ある方のアドバイスによって考えるようになりました。


中には「自分が安心するために」信仰告白を執拗に求める人がいますが、それは間違いであること。

本人に平安が無かったら、全く意味がない、むしろ非礼な行為であること。

大事な事は、「救いの慰め」を最後まで伝える事であると。


それを聞いて、ある文章を思い出しました。

<ある患者さん>

60代の男性患者Aさんと出会いました。
初めてお会いしたとき、すでに片方の足を切断されていたAさんは、ご自分のこれまでの病気の経緯を話してくださり涙をボロボロとこぼすばかりでした。けれども、祈ることやたましいの安らぎを求めるようになり、やがてご自分が神さまの導きによって支えられていると信じていかれるようになりました。

 私がAさんとともに過ごせたのは、わずか15日間でしたが、Aさんは天に召される2日前にこのようにおっしゃいました。

「入院した頃は病気のことばかり考えていました。だんだん悪くなって苦しくなって最期を迎える・・・何度考えても、いつもそこを頭がぐるぐる回るばかりでした。でも、今はどうしても治りたいと思わなくなりました。気持ちが安らかであることが何より幸いです。」

 Aさんはこれまで何度、その苦しみの意味を問いかけてきたことでしょう。
 けれども、もう「なぜ?」と問うことをやめました。具体的な答えを見つけたというのではありませんでしたが、もうそれを問わずにすむようになりました。

 詩篇23編には「たとい死の陰の谷を歩むとも災いをおそれません。あなたが私と共におられるからです」(口語訳)とありますが、Aさんはこの箇所を
「今の私の心そのものです。」とおっしゃいました。
 Aさんの心は、問い続けてきた答えが何であろうと、今は共にいてくださる方がいるからもうそれで十分、もう問う必要がないーという思いに至りました。          「わたしをいきる」  ふじい りえ 

このように、本人が主イエスに出会い、魂に平安と安らぎが与えられるように「救いの慰め」を最後まで伝え続ける事が大事であり、安易に信仰告白に導いて、救われたと喜ぶのは違うのではないかと思うようになりました。

聖霊の働き


使徒の働き以降を読んでいると、聖霊が豊かに働いておられるのを見る事ができます。

聖霊


①知性を持つ

「神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。
いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。」(Ⅰコリント2:10-11)


感情がある

「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。」(エペソ4:30)

「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。
しかし、彼らは逆らい、主の聖なる御霊を痛ませたので、主は彼らの敵となり、みずから彼らと戦われた。」(イザヤ63:10)


③ 意志がある
「しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。」(Ⅰコリント12:11

「それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った。」(使徒16:6)

聖霊と私たちは、次のぜひ必要な事のほかは、あなたがたにその上、どんな重荷も負わせないことを決めました。」(使徒15:28)


④証しする

わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。 」(ヨハネ15:26)

そして神は、イスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるために、このイエスを君とし、救い主として、ご自分の右に上げられました。
私たちはそのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊もそのことの証人です。」(使徒5:31-32)


 ⑤命令を出される

御霊がピリポに「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい。」と言われた。 」(使徒8:29)


召して下さる

彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい。」と言われた。 」(使徒13:2)

 助け、とりなしをして下さる

御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。 」(ローマ8:26)


⑧ 励まして下さる


「こうして教会は、ユダヤガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられて平安を保ち、主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて前進し続けたので、信者の数がふえて行った。」(使徒9:31)


⑨ 導き入れ、語り、聞き、話し、示し、現し、受け、知らせて下さる。

「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。
16:14 御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。 」(ヨハネ16:13-14) 


今の教会に欠けているのは、この聖霊の声を聴き、従うこと。

御霊は私達が聴こうとするなら、使徒の働きにあるように実にリアルに、するべき事を具体的に語り掛けて下さる方だと思います。
自分の思いではなく、御霊の思い、主の思いを行なっていくことが出来るようになりたいです。

信条

私が通っている聖書の学び会の「信条」がとてもよくまとまっているので、覚書として載せたいと思う。(英文からの翻訳)


1. 私達は聖書66巻はすべて言葉によって霊感され、すべてに全く誤りのない神のことばであり、それゆえ、信仰と生活の唯一絶対の権威を持つと信じます。

2. 私達は、父、子、聖霊の三位一体の唯一の神を信じます。

3. 私達は処女降誕を信じ、イエスキリストは神であり、永遠の神の御子であり、この方は人の子でもあられ、神と人との2つの違った性質を持つ一人の格であることを信じます。

4. 私達は世界の罪の贖いのために、イエスが身代わりとして十字架の上で死なれたこと、また悔い改め、信じる人すべてに、この罪の贖いが有効であることを信じます。

5. 私達は主イエスキリストの肉体の復活を信じます。イエスの復活は神からの賜物であり、永遠のいのちを受け取った者、全ての信者の復活を確信させると信じます。

6. 私達は、また福音を拒む未信者に関して「死後のさばき」を信じます。

7.私達はキリストが目に見える、肉体をともなった姿で地上にすぐにも再臨され、神の国を建て、義にあって、この世を裁かれることを信じます。

8.私達は、人はもともと神のかたちに創造されたが、最初の人アダムを通して堕落し、犯した全ての罪に責任を持つ者であることを信じます。罪は人を神から引き離し、永遠に神から失われたものにする。

9.私達は永遠に続く「罪の刑罰」からの救いと「神との交わり」に入れることは、各人が個人的にキリストご自身が十字架に架かり、私達の罪を負って下さったことを信じることによって、また、聖霊なる神を通して、私達の内にキリストを明確に受け入れることによってのみ、確かなものとされることを信じます。このことが永遠のいのちを受け取ることであり、贖いの日まで保証されていることです。

10. 私達は、聖霊イエス・キリストを救い主であり、主と受け入れた人、全てに内住されると信じます。

11. 私達は、聖霊は死からいのちに移し、信者の内に「聖化のわざ」を成し遂げる働きを担っている事を信じます。

12. 私達は、教会はキリストのからだであり、新生した信者の霊的な器官であり、その人達はバプテスマによってキリストと一つになるよう、また主の聖餐でイエスの死を覚えるよう召されていると信じます。

13. 私達は、全ての信者は、この世にあって、しかしこの世とは分離するように召されていると信じます。

14.私達は、クリスチャンはキリストを証し、全ての国に福音を宣べ、各人がそれぞれに備え召された神の目的に向かって成熟に至るまで、内住の聖霊の力によって各自が個人的に聖書を学ぶように召されていることを信じます。

既に聖所に立っている。



「聖なる主の前に(250番)」

1.聖なる主の前に 頭をたれ
 心しずめよ    主がおられる
 聖なる主の    聖所に立ち
 心を静めよ    主がおられる

2.聖なる主の栄え  光はなち
 聖なる炎     きよめつくす
 光の主は     冠うける
 心を静めよ    光の中

3.聖なる主の力  ここに満ちて
 すべてをいやし きよめられる
 どんなことも   成し遂げる主
 心を静めよ    主の御前に
 


ヘブル9章
:11 しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、
:12 また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。

ヘブル10章
:19 こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。
:20 イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。

エペソ2章
:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
:5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――
:6 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

主が十字架に架けられた時に、古い人である私も一緒に死にました。
キリストの聖なる炎によって 私は燃え尽き、灰となり
キリストだけが残ります。
そこはキリストの内(In Christ)であり、真の聖所です。
既に、尊いキリストの血によって、聖所に立っていることを
もっと深く理解することができますように。

キリストの内に、神性、知恵と知識の宝のすべてが隠されている。
私たちは既にその中にいることを。

コロサイ2章
:3 このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。
:9 キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており、
:10 そしてあなたがたは、キリストにあって、それに満たされているのである。彼はすべての支配と権威とのかしらであり、

(塚本訳)
:9 (君達はこんなものに惑わされず、ただキリストに拠れ。)何故なら、彼の中には豊満なる神性が悉く形体を取って宿って居り、
:10 君達は彼によってこの豊満に与る者とされたのであるから──彼は凡ての(天使達、すなわち)「権威」「権力」(等)の頭であり給う。


In Christ キリストのうちにとどまる


ブログタイトル「主イエスは我が内におられる」は2014年に「聖霊の内住」の啓示を受けた時につけたものです。
そのタイトルが、今は洋服が小さくなってしまったような感じで合わないと思うようになりました。

その時の体験
聖霊の内住 ハドソン・テーラー

※それ以前は「主とともに歩む喜び」というタイトルで救われた喜びに溢れ、証しを通して伝道していきたいと思ってブログを開設したのでした。

聖霊の内住」の啓示は素晴らしいものでしたが、それでは球の半分でしかない事を一昨年、知りました。

A.Bシンプソン キリスト生活 第3章 

キリストにある「聖書に示されている私たちとキリストとの結合には二つの面があります。それらはギリシャ語の前置詞『~にある(in)』によって最もよく表わされています。それは、私たちに祝福の半球を二つ与えます。
第一は『キリストにある(in Christ)』であり、
第二は「あなたがたの内にあるキリスト(Christ in you)」です。
これらは異なる思想ですが、互いに相補的であり、組み合わさって私たちがこれまで語ってきたキリスト生活を構成します。

私が受けた啓示は「あなたがたの内にあるキリスト(Christ in you)」であり、
私はまだ『キリストにある(in Christ)』という半球の方を知らなかったのです。


「私たちの全てが御子と共に十字架に架けられ、御子と共に葬られました。
水のバプテスマはそれを体現しているものです。そして葬られてしまった私たちが生きるのは、ただ復活した御子の中においてのみ、であります。
なぜなら御子だけが聖霊によって死から復活したからです。
すなわち新生した私たちは復活した御子のうちに『In Christ』にバプタイズされ、御子のいのちによってのみ、真に生きるわけです。
そして御子のうちにこそ、また御子のうちにのみ、聖霊が満ち満ちているのです。」
[In Christ]について非常に有益な記事



上記は信仰を送る上で、一番大切な真理であり、「聖霊バプテスマ」もその真理を信じる時に起こるのだと思っています。

ブログタイトルの話に戻ると、当初、弱い私は「あなたは私の隠れ場(詩篇32:7)」という御言葉に慰めを与えられていたので、この御言葉に変更しようとしていました。
けれど、

旧約の「隠れ場」は、新約では「キリスト」です。「隠れ場に隠れる」とは、新約的には「キリストのうちにとどまる」と同義です

と「牧師の書斎」に書かれているのを偶然、見つけ、一番大切な真理である「In Christ」に変更する事にしました。