上にあるもの

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★今日のみ言葉★
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「上にあるもの」

前回のみ言葉を覚えていますか。
上にあるものを求めなさい、というみ言葉でした。
では、上にあるものとは何でしょうか。
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ヤコブ 3:17
しかし上からの知恵は、第一に清く、次に平和、寛容、温順であり、あわれみと良い実とに満ち、かたより見ず、偽りがない。(口語訳)

上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。
憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。(新共同訳)

But the wisdom that is from above is first pure, then peaceable, gentle, willing to yield, full of mercy and good fruits, without partiality and without hypocrisy.(NKJV)
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上にあるものが何であるかが分かりますね。
ここでは知恵と言われています。
知恵と言えば、頭の働きのようですが、上からの知恵は、どちらかと言えば、心に触れるものです。
平和(平安)、寛容、温順、あわれみをすでに経験しておられる方は、それは上からの知恵であると受け止めていますか。
そこには偏見や偽善的なものはありません。
聖書の中で、「新しく生まれる」という言葉がありますが、あそこは「上から生まれる」とも訳されているところです。
この地上のもの以上に上にあるものを求める、その人は上から生まれた人だからです。
どう思いますか。

浜崎英一

待っていて

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★今日のみ言葉★
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「待っていて」

主なる神を信じるあなたやわたしは、主を待ち望む者たちです。
ところが、待っているのはわたしたちだけではありません。
誰が待っているのでしょうか。
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イザヤ 30:18
それゆえ、主は待っていて、あなたがたに恵を施される。
それゆえ、主は立ちあがって、あなたがたをあわれまれる。
主は公平の神でいらせられる。
すべて主を待ち望む者はさいわいである。(口語訳)
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主は何を待っておられるのでしょうか。
別に待たないで、何でもご自分の思うことをやって下さってよいと思うのですが。
主が待っておられるのは、信仰をもってご自身を求める人です。
ヘブル 11:6
信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。
神に近づく者は、神がおられることと、神ご自身を求める者には報いてくださることを信じなければならないのです。(私訳)

何かをではなく、神ご自身を求める人、その人はまた、主を待ち望む人です。

浜崎英一

命を得るから

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★今日のみ言葉★
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「命を得るから」

どちらかと言えば、忙しくバタバタとしている人の方が賞賛される時代です。
何もしないで主を待つ人、その人は人に理解してもらうことは難しいでしょう。
主を待ち望む人は何を得るのでしょうか。
今日のみ言葉もすばらしい約束が語られています。
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箴言8:34~35
わたしの言うことを聞き、日々わたしの門のかたわらでうかがい、わたしの戸口の柱のわきで待つ人はさいわいである。
それは、わたしを得る者は命を得、主から恵みを得るからである。(口語訳)
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主を待つ人の姿が思い浮かぶような表現ですね。
主が出入りされる門、そのそばで待っているのです。
主の家の戸口の柱のそばで待っているのです。
その人には、得るものがあります。
主を待ち望む人は何を得るのでしょうか。
命を得るのです。生きるパワーですね。
恵みを得るのです。恵みですから、働きの結果、得られる報酬ではありません。
「わたしの言葉を聞き」とありますが、主のみ言葉を聞いて、み言葉の約束を信じて、日々主を待つ人は幸いな人です。

浜崎英一

喜びと楽しみ

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★今日のみ言葉★
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「喜びと楽しみ」

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詩篇16:11
あなたはいのちの道をわたしに示される。
あなたの前には満ちあふれる喜びがあり、あなたの右には、とこしえにもろもろの楽しみがある。(口語訳)
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主よ、あなたのいのちの道を感謝します。
そこに喜びと楽しみがあるのですね。
この喜びは、何か美味しいものを食べたからではなく、何か特別なものが手に入ったからという、そういう理由からではありません。
それは、あなたの前にある喜びであり、あなたの右にある楽しみです。
このあなたの前にある喜びとわたしを含め、多く人が普通に経験している喜びとは同じものでしょうか。
主よ、どうぞ、そこに質的に違いがあることをもっと分かるようにしてください。
そうでなければ、わたしは簡単に混同してしまいます。
そして、いのちの道が分からなくなります。

浜崎英一

いのちが実を結ぶために

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★今日のみ言葉★
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「いのちが実を結ぶために」

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ヨハネ12:24
よくよくあなたがたに言っておく。
一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。
しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。(口語訳)
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主よ、自然界の法則は、種を撒けば、芽を出し、やがて実を結ぶ時が来ます。
蒔かれた種は、確かに地中に死んだかたちです。
この自然界の法則はあなたが造られたものです。
また、その同じ法則が、霊的な事実の中にも働くことを教えられ、感謝です。
自分が無視されることを恐れたり、どこかで認められたい、良く思われたいという自分が生きていることで、神の国のために実を結ぶことを邪魔しています。
どうぞ、今この時、あなたのいのちが実を結ぶために、わたしの死ななければならないところを教えて下さい。
また、あなたが教えおられる時、それを無視することがありませんように。

浜崎英一

肉の思いと御霊の思い

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★今日のみ言葉★
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「肉の思いと御霊の思い」

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ローマ8:4~6
これは律法の要求が、肉によらず御霊によって歩くわたしたちにおいて満たされるためである。
なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、御霊に従う者は霊のことを思うからである。
肉の思いは死であるが、御霊の思いは、いのちと平安とである。(口語訳)
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主よ、あなたのいのちと平安のうちを生きる毎日でありたいです。
そのためにも、わたしが自分で選ばなければならないことがあります。
これは他の人に代わってもらえない選択です。
その選択の結果を人のせいにすることは出来ません。
肉による歩みか御霊による歩みか、それを見極める余裕と力を与えてください。
それは結果でも分かるのですね。
空しい思い、不毛な結果を招くのは肉の思いです。
いのちと平安、喜びと感動の伴う結果を得られるのは御霊による歩みです。
この違いははっきり分かります。
どうか、そのためにわたしの心と思いを今日も、守り導いてください。

浜崎英一

罪を罪と感じないこと

三浦綾子さんの「光あるうちに」の中に

最大の罪とは、「罪を罪と感じ得ないこと」 とあった。

それは人が「自分の罪を計る物指し📐」と「人の罪を計る物指し📐」と2つ持っているからで、人には厳しく自分には甘いので、自分の罪には気付きにくいというものだ。
この自分に都合のよい計りが自己中心のあらわれであり、罪の元である。

例えば、子どもが花瓶を割ったら酷く叱るのに、自分が割ったらちょっと舌を出した程度で、自分の過失は赦し、子どもを叱る時のようには自分を叱らない。

ある人が車で子どもをひいてしまった。急に飛び出して来た方が悪い、子どもをよく躾けていなかった親が悪いと言っていた。
ところがその後、自分の子どもが車にひかれて死んだ。
その人は半狂乱になり、「こんな小さな子どもをひき殺すなんて」と運転手に食ってかかり殴りつけた。
自分が子どもをひいた時は相手の親が悪く、自分の子がひかれた時は、ひいた運転手が悪い。

三浦綾子はこの人を笑うことはできないと言っている。
これは私達人間の赤裸々な姿で、私達は自分の罪が分からないということでは、この人と同じであると言っている。

「自分に都合の良い計りを持っている」 これが自己中心のあらわれであり、罪の元である。
自己中心な人間は、自分の考えに拍手喝采してくれないものを憎む。
自分が悪口を言う時に、共に悪口を言わぬ相手を嫌う。
自分が怠ける時、共に怠けない友を疎む。
酒を飲む人間は飲まぬ人間を軽蔑する。
つまり自分の共犯者でない者は嫌いなのだ。
考えてみると、わたしたち人間と絶対共犯者にならない、
正しく聖い存在は誰か。
それは神である。
だから自己中心であればあるほど、神を嫌う。
神を見ようとはしない。神を無視してやまない。
「神のほうを見ない」これが原罪である。

その他、泥棒と悪口を言うのと、どちらが罪深いか?
牧師は説教の中で「悪口の方が罪深い」と言った。
大事にしているネックレスが盗まれたとしても
「高価なものだったのに惜しいことをした」という痛み程度にとどまる。
泥棒に入られた為に自殺した話はあまり聞かない。
だが人に悪口を言われて死んだ老人の話や少年少女の話は時折聞く。

私達の何気なく言う悪口は、人を死に追いやることもある悪の力だ。
泥棒などのような単純な罪とは違う。
もっと泥々した黒い罪だ。
人を悪く言う心の中にとぐろを巻いているのは何か?
敵意、妬み、憎しみ、優越感、軽薄、その他もろもろの思いが、
悪口、陰口となってあらわれるのだ、
この世に悪口を言ったことのない者は無いに違いない。
それほど私達は一人残らず罪深い人間なのだ。
にもかかわらず、私達はその罪の深さに胸を痛めることは甚だ少ない。
「罪を罪と感じないことが罪だ」と書いた。
こう書きながら、わたしは、私の罪に対する感覚の鈍さに慄然としてくるのである。
三浦綾子さんは書いている。

 

今朝の通読箇所

※しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。これらは、人を汚すものです。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません。(マタイ15:18.19)